1.聖書の権威(1)


1.聖書の権威

 聖書は神の感動によるもので、神の人類救済の聖意思を示し、我らの信仰と実践の唯一無比,完全にして真実なる標準たることを信ずる。

                        『日本バプテスト連盟信仰宣言』(1947年)より

聖書

マリヤと一緒に家にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、彼女は墓に泣きに行くのであろうと思い、そのあとからついて行った。マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。イエスは涙を流された。するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。

ヨハネによる福音書11章31節〜43節


 最近、私たちの周りではしきりに変革ということが叫ばれています。改革しなければならない、変えなければならないということが叫ばれています。しかし、その一方で何をどう変革しようとしているのかその中身がわからず多分にムード的だと言う批判の声も聞こえてきます。ところで、キリスト教は、その歴史の中で宗教改革という大きな変革を経験しました。この宗教改革運動というのは、聖書に帰ろうという運動でした。つまり、原点に立ち帰ろうとしたのです。私たちバプテスト教会は当時最も急進的な改革勢力でした。それは、他の宗教改革のリーダーたちから危険視されるほどでした。バプテストの群は、徹底的に聖書に書かれていることを尊重しようとしたのです。

21世紀に入り、世の混沌の度合いは進むばかりです。このような時にこそ自らの原点をしっかりと見つめることが必要です。時代にあった変化を遂げるためには時代に流されないことが大切です。真理を知る人は変化を恐れません。本当に大切なことを知っている人は、それ以外の事柄に対して自由に振舞うことができるからです。

新世紀、新しい歩みのために私たちの信仰の原点を見つめたいと思います。そこで、しばらくの間『教会の信仰告白』を説教の主題としたいと考えています。そしてまず信仰告白の第一項「聖書の権威」について、二回に分けて取り上げます。

 聖書は神の感動によるもので、神の人類救済の聖意思を示し、我らの信仰と実践の唯一無比,完全にして真実なる標準たることを信ずる。『日本バプテスト連盟信仰宣言』より

「聖書は神の感動によるもの」という言葉で始まる『信仰告白』を今という時代状況の中で読み返してみたとき、大変新鮮で意味深いものを感じます。今、心理学やカウンセリングということが大変重要視されています。私も、カウンセリングの学びをしましたが、そこで気付いた一つのことは、人間にとって感情というものがどれほど大切であるかということです。感情や、心に目を向けることが今見直されているのです。この信仰告白は「聖書は神の感動による」といいます。神の理性や、知性ではなく、「感動」なのです。この「感動」という言葉は私たちの神様が今も活き活きと生きておられることを示しています。傷ついた者の痛みを共に担い、悲しむ者の悲しみを受け止めてくださる神様の姿を思います。

イエス様はマルタとマリアの兄弟ラザロが病気であるときいたとき、「この病は死ぬほどのものではない」といわれました。そして、二日後にイエス様はラザロのもとにいこうといわれたのです。イエス様はラザロが亡くなったことを知り「ラザロを起こすために出かけよう」いってラザロのもとに出発しました。このころ既にイエス様の命はねらわれていました。ラザロの住むユダヤに行くというのは大変危険なことだったのです。

イエス様がラザロのもとについたとき、既にラザロは死に墓におさめられ四日がたっていました。二日の時を待たずにラザロのもとにイエス様が駆けつけたとしてもラザロの死の時には間に合いませんでした。

イエス様に対する「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」というマルタとマリヤの言葉は兄弟ラザロの死に対する深い悲しみが現れています。

この悲しみに満ちた中でイエス様は深い感動と憤りをおぼえられたのです。イエス様は心を激しく動かされたのです。この感動には、怒りや悲しみといった様々なことが含まれています。イエス様はこの状況に対して激しく心を動かされたのです。それは、死と悲しみの支配に対する憤りでした。この時、マルタもマリヤもそして周囲の人々も皆、死んでしまったならイエス様の力も及ばないと考えていたようです。生まれつきの盲人をいやす方でも、死んでしまったならもうどうすることもできないという思いです。死の力が絶対化されているのです。イエス様に敵対するユダヤ人たちの考えも同様です。どんなに力あるものであっても殺してしまえばそれまでであると考えていたからこそ、イエス様を殺そうと考えたのです。

死の支配、死の前に希望はうち砕かれ、悲しみが支配している。マルタの「終わりの日の甦りは信じております」という言葉がむなしく響いています。この死と悲しみの支配する世に対してイエス様は感動と憤りをおぼえられたのです。心を激しく動かされたのです。そして、それは同時に愛する者の死を前にして悲しんでいる者たちの悲しみを担ってくださったことを意味しています。私たちが悲しみや困難を前にして心が激しく動くとき、その心を共に担ってくれる人がいるということは大きな慰めです。イエス様はマルタとマリヤの悲しみに共感されたのです。

かつて神様はエジプトの地で奴隷として苦しんでいたイスラエルの民の叫びを聞き届けてくださいました。ここにも共感があります。叫び、嘆き、痛みを神様は無視されなかったのです。全知全能の神様の全知は悲しみや痛み、苦しみをも知っている本当に全知です。私たちは全知全能というと苦しまないこと、悲しまないこと、痛まないことがその力であるかと思ってしまいます。しかし、全てを知っておられる神様は、悲しみも、痛みも、苦しみをも知っていてくださるのです。

有名な黒人霊歌に「誰も知らない私の悩み」という歌があります。「私の悩みを誰も知らない、私の悩みを誰も知らない。しかし、イエス様は私の悩みを知っている。グローリ・ハレルヤ」という内容の黒人霊歌です。誰にも理解されない悩み、誰にも受けとめてもらえない苦しみ、そこには深い孤独の淵があります。しかし、イエス様がそれを知っていてくださる。ただそこにだけ慰めがあるのです。そして、私の悩みを知っていてくださるイエスさまに気付いたときこの黒人霊歌の詩人は「グローリ、ハレルヤ」と神を讃美するのです。肌の色が違うというだけで、人間としての尊厳を認められず家畜同様に扱われ、感情さえ無視された黒人奴隷たちの中で生まれたのが黒人霊歌です。彼らがであったイエス・キリストは形式だけの宗教でなく、知的に優れた宗教でもない。悲しむ者の悲しみを受けとめて心を騒がせてくださる方、感動する神様なのです。

イエス様の感動は、愛するゆえの感動です。マリアを愛し、マルタを愛し、そしてラザロを愛するゆえの感動です。そして、悲しみと死の支配する世の中で嘆いている者たちを愛するゆえの感動なのです。神様を忘れ、イエス様の御力を信じることが出来ずにいる私たちを見て、放っておくことの出来ない愛ゆえの感動なのです。イエス様は世を支配する者は、死でもなく悲しみでもないことをラザロの復活を持って示されたのです。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」という愛は、悲しみと死の支配する世にある、滅び行く者を前にして冷静ではいられない、感動する神の愛なのです。

滅びる者を放っておくことが出来ずに、救いの道を示すために神様は私たちに『聖書』をくださったのです。

「聖書は神の感動によるもので、神の人類救済の聖意思を示し、我らの信仰と実践の唯一無比,完全にして真実なる標準たることを信ずる」と告白する、この『信仰告白』の言葉は、聖書が私たちに対する神様からの「熱い」愛のメッセージ(ラブレター)であることを示しているのです。

祈り

 救い主イエス・キリストの父なる神様、あなたの御名を心より讃美いたします。

 イエス様、あなたは信仰の薄い者を見過ごしにはされませんでした。悲しんでいる者の悲しみを見過ごさず、苦しんでいる者の苦しみを受けとめてくださいます。そして、感動を持って、私たちに救いの現実をお示しくださいました。聖書はあなたから私たちに対する救いのメッセージ、愛のメッセージです。主よ、どうぞ私たちが聖書に込められたあなたの愛を受け入れることができますよう導いてください。

 この祈りと願い、主イエス・キリストの御名を通しておささげいたします。

(2001年7月1日 礼拝説教)