2008年 8月10日


主の憐れみにより
聖書 マルコ 5:1〜20
  聖書の中には時折オカルト的な出来事が登場します。今日の聖書箇所には悪霊にとりつかれた人が登場します。私の世代ですと、悪霊というと子どもの頃話題となったエクソシストという映画を思い出します。エクソシストというのは悪魔払いのことで、少女に取り憑いた悪魔を追い出すという映画です。その映画にはカトリックの司祭が悪魔と激しい死闘をするのですが、実際にカトリック教会には公認のエクソシストをする司祭がいるそうです。数年前にアメリカのLAタイムスの女性ジャーナリストがバチカン公認のエクソシストの取材をした「バチカンのエクソシスト」という本が日本でも大手の出版社から出版されました。日本でも狐つきといったことが言われますし、悪霊払いをする祈祷師の方などもいらっしゃいます。このようなことをどのように受けとめるかは個人個人で大きな差があると思います。一方で、聖書に出てくる悪霊にとりつかれた人というのは、脳の障害を負った人や精神的な重い病の人だといわれることがあります。聖書に悪霊にとりつかれている人として描かれている人の症状が、明らかに病気の症状と一致するものがあるそうです。ですから悪魔払いよりも医学的な対応で改善されるものもあるそうです。

 さて、今日の聖書箇所には悪霊にとりつかれた人が登場します。そして、イエス様と悪霊とのやり取りが記されており、さらに二千匹の豚が悪霊によって雪崩を打って湖に入ってで愧死するという事件が記されています。ですから、これを脳の病気とか精神的な病とするには無理があるでしょう。このような聖書箇所を私たちはどのように受けとめたらよいでしょうか。「聖書だから」といって何も考えずにその通りだと飲み込んでしまう方法もあるでしょう。オカルト的な表現の部分を比喩として解釈する方法もあるでしょう。しかし、ここではまず、この通りのこととして受けとめたいと思います。そして、そこに表現されていることから、人間の現実や神様の御心を尋ね求めたいと思うのです。荒唐無稽な物語の中に大切な真実が込められている映画や、小説があります。ファンタジーといわれますが、ここに描かれていることをそのまま事実として受けとめる場合でも、創作と受けとめる場合でも、どちらであっても大切なのは人間の現実や神様のメッセージを受けとめることが大切だと思います。

 ここに登場する霊にとりつかれた人は、墓場を住まいとしています。墓場は生きた人間のための場所ではありません。死んでしまった人の亡骸をおさめておく場所です。この人は生きていましたが墓場を住まいとしていました。それは、その人が属していたコミュニティーから追い出されている状態です。人々の社会の中に彼のいる場所はありませんでした。町の人々は彼を鎖でつないでおこうとしましたが、この人は鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまいました。まさに手に負えない状態です。町の人々はもはやこの人を治そうとは思っていませんでした。せめて自分たちに危害が及ばないようにする、それがこの町の人々の願っていたことでした。

 汚れた霊の働き、それは、人から尊厳を奪い、他の人と共に生きることができないようにしてしまう働きです。イエス様のもとには汚れた霊にとりつかれた人も度々連れてこられました。そこには、その人が再び社会に復帰し、自分たちのコミュニティーの中で共に生きるものになってほしいという、家族や友人といった周囲の人々の願いがありました。けれども、この悪霊にとりつかれたゲラサ地方の人にはそのような周囲の人々の支援はありませんでした。以前には彼のことを心配し、何とか良くなってほしいと願っていた人もいたことでしょう。しかし、今では彼はすっかり見放されていました。

 この人は、イエス様のことを遠くから認め、走り寄ってひれ伏しました。しかし、そうさせたのは彼の意志や願いではなく汚れた霊によって彼は、イエス様のところにきて願ったのです。汚れた霊は、イエス様が誰であるのかを認めました。霊はイエス様が神の子であることを正しく理解していました。そして霊は、イエス様に自分を苦しめないようにとひれ伏して願ったのです。イエス様は「汚れた霊、この人から出て行け」と命令されました。イエス様は、この悪霊にとりつかれた人を憐れまれたのです。この人が再び人間としての尊厳を取り戻し、コミュニティーの中に再び帰ることができるようにとイエス様は、汚れた霊にこの人から出ていけと命令したのです。汚れた霊はこの地方から自分たちを追い出さないようにとイエス様に願いました。そして、この霊たちはその地方で飼われていた豚の中にはいることを赦してほしいとイエス様に願ったのです。

 このやり取りの中でイエス様は霊に名前を聞き、霊はそれに答えます。名前を答えるというのは白旗を掲げたことを意味しています。これは、聖書以外の神話や物語にも出てくるモチーフです。名を名乗ってしまった、汚れた霊はもはやこの人にとりついていることができないとわかって、豚の中に入ることを願ったのです。そして、イエス様はそれをお許しになりました。ここで、豚がかわいそうだと思う方がいるかも知れません。また、ユダヤ人にとって好ましくない動物である豚もゲラサ地方の人にとっては大切な家畜であり財産です。しかし、イエス様はこの一人の人が正気を取り戻すこと、そして、人間の尊厳と人格を取り戻し社会に復帰することを大切にされたのです。

 豚に霊が入ると、二千頭の豚たちは雪崩を打って湖に入りおぼれ死んでしまったのです。この出来事に豚飼いたちは驚きあわてふためき逃げ出していってこの出来事を村や町の人々に知らせました。

 この出来事を知った人々はイエス様のところにやってきました。彼らは、霊にとりつかれた人が治っているのを見て恐れました。そして、人々はイエス様にこの地方から出て行ってほしいと言い出したのです。彼らにとって、一人の人が人間として立ち直ったことを喜ぶよりも、財産である豚を失ったことの方が問題でした。他人の命や人生よりも、自分の生活のほうが大切に思えるというのは悲しいことですが、人間の現実でもあります。そして、それはゲラサ地方の人だけでなく、ユダヤ人にも、私たちにとっても人ごとではありません。そして、イエス様のように一人の人を何よりも大切にする人を迷惑な存在に感じるのです。この救われた人は、自分が正気を取り戻したことを町の人々が全く喜んでいないということを察知したのでしょう。それどころか、迷惑に思われているということも感じたのでしょう。そして、イエス様への感謝の思いも相まって、彼は、イエス様に従っていきたいと願いました。しかし、イエス様はそれをお許しになりませんでした。イエス様は彼が自分の家に帰り、身内に人々に主が憐れんでくださったことを証しするようにと言われたのです。彼は、イエス様のことばに従い主の憐れみを言い広めたのです。イエス様は彼に弟子としての努めを与え、彼は異邦人の弟子としてイエス様に従ったのです。

 さて、主が一人の人を憐れみ救おうとされるとき、人々に犠牲を払うことを求められることがあるのです。私たちにはその覚悟があるでしょうか。それとも、人を憐れみ、癒しを与えたくださったイエス様にここから出て行ってほしいと願うのでしょうか。イエス様はこの出来事を通して、私たち問いかけておられるのです。 

祈り

 主イエス・キリストの父なる神様、今日の主の日もこうして教会に集い、共に礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。

 イエス様は、何よりも一人の人が救われることを願っておられます。憐れみを持って私たちを救ってくださいます。そして、その救いの業のために私たちに犠牲を求められるのです。どうか私たちが、あなたの救いの業のためにあなたに求められたものを捧げることができますように。主よ聖霊によって私たちを導き、あなたのみ業に参与させてください。

 この祈りと願い、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。