マタイによる福音書 4章


   ヨハネからバプテスマを受け、聖霊に満たされたイエス様が最初に向かったのは荒れ野でした。荒れ野でイエス様は左端の誘惑をお受けになりました。この記事はマタイ、マルコ、ルカに共通していますがマルコには至ってシンプルに、そして、マタイとルカはより詳しくこの誘惑の出来事を記しています。そして、マタイは「神の言葉」の大切さにポイントを置いているようです。「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という聖書の引用はマタイ独特です。

 さて、荒れ野での試練は「霊」の導きであったと聖書は記しています。神様はその愛する者に試練をお与えになります。ヘブライの手紙12章にあるように愛する故に父は子を訓練します。そこで、イエス様はサタンから誘惑を受けられました。サタンの働きは人を神様から遠ざけることです。サタンは「飢え」という命に関わる事柄を用いて誘惑します。それによって、イエス様に神様から与えられた使命を放棄させようとしているのです。イエス様は五千人、四千人の給食の奇跡をなさいました。ですから、食べ物を得ることができたはずです。その力を持っておられました。神の子であるが故に飢えを知らずにすむのです。しかし、ここでイエス様サタンの誘惑を退けました。イエス様は「飢えること」を知っていて下さいます。貧しい者として試練を受けられたのです。次にサタンは神を試みるようにとイエス様を誘惑しました。これは、信仰を持つ者への誘惑です。「神様がいるのなら危機から救って欲しい」「神様を信じているのになぜこんな苦しい目に遭うのか」と、苦しみやこの世の不条理を通して神様への疑いを引き起こそうとするのです。次の誘惑は、繁栄を与えるという誘惑です。パンの誘惑とは逆に、これは豊かな者、権力を持っている者への誘惑ともいえるでしょう。

 イエス様の受けられた試練、そしてサタンの誘惑は人間なら誰しも味わう苦しみです。満たされない苦しみ、信じられない苦しみ、そして、もっと欲しくなる苦しみ。そんな心の隙間にサタンはつけいってきます。これらの誘惑は神の座に座っていたなら受けなくてすむものです。イエス様は人の苦しみを知っていて下さるのです。 

 さて、イエス様はヨハネが捕らえられたと聞いて、いったんガリラヤに退かれました。そして、ナザレを離れカフェルナウムを拠点として伝道活動は始めました。マタイはこの場所もまた旧約の預言にかなうものだと言うことを示しています。

 次に、イエス様は四人の漁師を弟子になさいました。この時イエス様は「人間をとる漁師にしよう」とおっしゃいました。イエス様は人を招くことを大切にされました。時折、教会あっ人が増えればいいのか、と批判する人がいます。確かに、人を増やそう、教会の敷居を低くしようとして大切なことを見失ってしまうことがあります。外見はキリスト教会だけれども中身はどこかの新興宗教と変わらないと言うことさえあります。しかし、その批判も行き過ぎると伝道を否定することになってしまいます。イエス様は弟子を招いた時、その目的は人をとらえることだとはっきり言っておられることを忘れてはならないでしょう。イエス様の働きはめざましく、多くの人がイエス様に従いました。イエス様は人々の求めに応えて癒しをなさいました。キリスト教は医療や福祉、教育活動、また人権活動などをリードしてきました。それらはまさに「癒し」の働きです。

 マタイ4章には荒れ野での誘惑の記事とイエス様の力強い癒しの働きが記されています。この二つのことを重ねて見た時に一つのことがとても鮮明に浮かび上がってきます。それは、イエス様は「神の子」としての力を決してご自分のために用いなかったと言うことです。イエス様は持てる力を、そして、ご自身の命を私たちの救いのためにのみ、用いて下さったのです。しかし、自分のために、と願った弟子たち、そして、群衆たちは、イエス様が本当に言いたかったことをその生前には受け止めることができませんでした。私たちはこの事実を忘れないようにして、イエス様の御心を訪ね求めていきたいと思うのです。