
3課 キリスト教の人間観
1.聖書の人間観
A.霊的存在としての人間
*霊と肉からなる存在
太古の昔から人間は自分自身の中に霊的な部分があると感じていたようで
す。死んだ人間が幽霊になって現れるという話は世界中にあります。また、ギリ
シャ哲学も人間を霊と肉からなる存在として理解しています。そして、聖書も人
間を霊と肉かなら成るものとしています。
*ギリシャの二元論と聖書の二元論
人間を霊と肉からなるものという考え方を二元論といいます。しかし、ギリシャ
的な二元論と聖書の二元論は全く違うのです。ギリシャ的な霊肉二元論では、
霊(魂)は完全な良い物として理解されています。そして、肉体は不完全な悪い
ものとされています。ですから良く生きるためには、強い意志をもって魂の命令
に肉体を従わせなけれなりません。一方、聖書は人間の肉も霊も不完全なもの
としています。良く生きるためには、魂の命令ではなく神の導き、御言葉に従わ
なければなりません。
B.「神のかたち」に作られた人間
*神は自分のかたちに人を創造された。【創世記 1:27】
神様は万物の創造主ですから、私たちもまた神様によって作られ、命与えられ
た存在です。聖書は人間の創造について、「神は自分のかたちに人を創造さ
れた。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」 (1:27)と記し
ています。
*「神のかたち」って何だろう?
神様は人間をご自身のかたちに創造された、と聖書にあります。この「かたち」
ということについて代表的な三つの解釈を示しましょう。
@文字通り、神様と同じ造形に作られたという説。
A「神のかたち」はエジプトなど古代社会の王に対する称号でした。それに対
して、聖書は人は全て「神のかたち」であるというのです。“神様は全ての
人を等しく価値あるものとして創造された”という説。
B男と女に創造されたということから、「神のかたち」は異なった者が互いを尊
び助け合うという、神の愛の性質を表しているという説。
*諸説ありますが、神様は人にかけがえのない価値を与えてくださった、という
ことが共通して「神のかたち」という言葉に表れています。
2.人間の罪
A.人間の堕罪
*人は“良いもの”として創造された
神に造られたとき人間は良いものでした。エデンの園で人間は神様との信頼関
係の中にあり、豊かな生活をしていました。ところが、人は蛇の誘惑によって、
神様の信頼を裏切って「知恵の木の実」を食べてしまいます。
このことによって、人は神様との信頼関係を壊してしまったのです。このように
神様との関係が壊れた状態を聖書は「罪」というのです。ですか ら、この「罪」
は法を犯したというような人に対するものではありません。神様に対する罪であ
り、これを「原罪」といいます。
*蛇の誘惑
人は蛇に誘惑されました。蛇は「それを食べると、あなたがたの目が開け、神
のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創3:5)という
言葉で人を誘惑しました。@「死ぬことはない」、A神のようになれる」という二
つのことは昔から今に至るまで人間を魅了してきました。私たちもこの誘惑に
気をつけなければなりません。人は、創られたものとしての限界を受け入れる
必要があるのです。
B.罪を負う人間の苦しみ
*罪の結果
誘惑に負けた人間は神様との関係を壊してしまいました。ここに原罪がありま
す。そして、この原罪から様々な罪が表れてきたのです。罪の結果、人は自分を
受け入れられなくなり、神様との関係と他者との関係を壊してしまったのです。ね
たみや怒り、不信感といった思いが生まれ、人のものをむさぼったり、人を傷つ
けるといったことがおこり始めたのです。このような人間の行いや心の状態は聖
書の時代も、今も変わりません。ですから、現代人の苦しみもまた、聖書が示す
罪の結果といえるでしょう。
*全ての人は罪人である
ヨハネの第一の手紙に「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであっ
て、真理はわたしたちのうちにない。」(1:8)とあります。また、ローマの手紙7章1
5節には「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分
の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。」というパ
ウロの叫びが記されています。この言葉には、良い行いを願いながら裡にある
罪のためにそれを実行できない人間の苦しみと、罪深さがあらわれています。そ
して、これが聖書の示す人間の「罪」の現実なのです。