2008年 7月13日


イエス様の家族
聖書 マルコ 3:31〜35

 家族というのは社会の基本的な単位、つまり、最も小さな社会の単位だと言われることがあります。最も近い関係だからこそ、そこに様々な問題が生まれることがあります。旧約聖書、特に創世記のアブラハム、イサク、ヤコブの物語というのはまさに家族の物語です。そこに描かれていることは、形が変わっても現代の家族の中にも起こりうる様々な心の葛藤やぶつかり合いが描かれています。

 イエス様の家族は、聖なる家族、聖家族と言われています。特にクリスマスの場面、馬小屋での場面などは夫婦の暖かな愛情と家族にとって最も大切な支え合い、互いの思いやりが現れています。しかし、その家族の中にも様々な問題や葛藤があったことでしょう。先週の聖書箇所には、イエス様の身内の人たちがイエス様のことを取り押さえにきたという、穏やかではない出来事がしるされていました。イエス様の父ヨセフも母マリアもイエス様に関するすべてのことを理解していたわけではありません。不思議に思うこと、理解できないことがありました。そのようなときマリアは「心にとめて思いめぐらしていた」と記されています。理解できないけれども、イエス様のことを信頼しておられたのでしょう。けれども、身内の者たちは理解できないこと、納得できないことをそのままにしておくことができませんでした。ですから、理解できない行動をとるイエス様を取り押さえようとしました。そんな騒動の後でイエス様の母とその兄弟たちがイエス様のもとを尋ねてきました。

 イエス様の周りにはいつものように大勢の人がいました。イエス様の家族は家の中には入らずに、人をやってイエス様を呼ばせたとあります。家族だけで話をしたいと思ったのかもしれません。短いやりとりですが、私にはイエス様と家族の間に距離があるように感じます。ヨハネ福音書によれば、イエス様はガリラヤのカナで親族の結婚式に出席し、そこで水を葡萄酒に変えるという最初の奇跡をなさいました。この出来事の後、イエス様は母、そして兄弟たちとカフェルナウムに行ってそこに幾日か滞在したとも記されています。ですから、家族はそれなりにイエス様の行動路理解し、イエス様のなさる奇跡も受け入れていたようです。しかし、当時の宗教的なエリートで力を持っていたファリサイ派や祭司との対立、そして、身内の者たちとの緊張関係の中で、家族の心も揺れていたのではないでしょうか。このような中で、家族はイエス様に活動を少し控えるようにとでも言いたかったのではないか、そんなふうに思えるのです。イエス様は家族の求めに応じていません。家族のもとに出て行かれなかったようです。こんなところからも、イエス様ご自身、家族との間に距離を感じておられたように思えるのです。ヘブライの手紙にイエス様は「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです」と記されています。イエス様は、悩むことや痛みを知っておられます。それは、家族との関係の中にもあったでしょう。

 イエス様は家族の呼びかけに応じなかったようです。そして、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答えられたのです。この言葉だけ切り取ってしまうと、イエス様が家族に対して心を閉ざしているように思えます。もし、私たちが自分の親に向かってこんなことを言ったらどうでしょう。もし、子供に言われたらどんなふうに感じるでしょう。しかし、イエス様は続けておっしゃいます。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と。ここには閉ざされた関係ではなく、開かれた関係が示されています。家族というのは、時としてとても閉鎖的になります。しかし、イエス様が示されている家族は開かれた家族です。

 そして、この言葉は私たちの人間関係の土台は何か、と言うことへの問いかけでもあります。創世記のアダムとエバの物語にとても興味深い記述があります。彼らが一緒に生きていこうと決心したとき、つまり結婚と言っても良いでしょう。そこには、「こういう訳で、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。もちろんアダムには父、母はいませんからこの言葉はアダムとエバの出来事に基づいて示されている聖書の結婚観と言っても良いでしょう。「男は父母と離れ」とあります。血の繋がりから離れて、互いの約束を土台として一体となるというのです。血の繋がりというのは深く、不思議なものです。ある時から、食べ物の嗜好が変わるときがあります。そして、振り返ってみると自分の親が好きだったものが好きになっている、そんな経験をしました。以前、病気で入院したときには、家族の病歴も聞かれました。もちろん、同じ生活習慣や教育によって似てくるものもありますが、そればかりではない結びつきを感じることがあります。しかし、その一方で、血の繋がりのある家族の中で激しい対立が起こることがあります。そして、血の繋がりを超えた家族があること、深い人間関係があることもまた事実なのです。血の繋がりによる家族また、様々な経験や出来事を通してその絆が深められてゆきます。ただお互いに依存する関係ではなく、一人一人の人格が整えられながら互いの関係が深められて行く。それは家族に限ったことではありませんが、家族にとっても必要なプロセスだと思います。

 イエス様の十字架の時、その十字架のもとにいた母マリア、そして、イエス様の兄弟ヤコブはやがてペテロとともに初代教会のリーダーとしての働きを担って行きます。イエス様とその母、また兄弟との絆は確かに深められ、強めらて行きました。イエス様は決して母、そして兄弟姉妹を軽んじたのではありません。

 さて、イエス様がここにわたしの母、わたしの兄弟がいるとおっしゃった、そこにいたのはどのような人たちだったでしょうか。病を負った人、汚れた霊を追い出していただいた人、様々な事情で家族の交わりから阻害されていた人もいたことでしょう。そのような人たちにとって、イエス様の言葉はどのように響いたでしょうか。「ここにわたしの家族がいる」、と言う言葉を聞いたとき、心が温かさで包まれた人がここにはいたのではないでしょうか。

 「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。この言葉はイエス様の招きの言葉なのです。そして、イエス様の呼びかけに応えた私たちは、教会を形作り、互いを兄弟姉妹として祈りあう神の家族なのです。だからこそ私たちは主の前に一人一人の人格が整えられつつ、この交わりをより深いもの、より豊かなものとしていきたいと願うのです。そして、開かれた家族として、主の招きの言葉を語り伝えて参りましょう。

祈り

 主イエス・キリストの父なる神様、今日の主の日もこうしてあなたの体である市川大野キリスト教会に集い、ともにあなたに礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。あなたは私たちを、家族として招き、大切な教会の交わりを与えてくださいました。どうか、私たちがこの交わりを豊かなものにして行くことができますように。一人一人が整えられ、そして、この交わりが深められて行きますようにお導きください。そして、あなたの招きの言葉を伝えて行くことができますように。

 この祈りと願い、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン