マタイによる福音書 5章


  マタイによる福音書の5章?7章は「山上の説教」と呼ばれる有名な箇所です。新共同訳聖書の小見出しで数えるとイエス様の22の教えが記されています。これらの教えは元々別の機会に話されたものをマタイがまとめたと考える、学者さんの説もあります。しかも、その一つ一つはとても深い内容を持っているので、本来ならばその一つ一つを丁寧に見てゆくのがよいと思いますが、今回は毎週1章を取り上げることを基本としていますので、章ごとのまとまりで御言葉を学んでいきたいと思います。

 イエス様の周りには癒しを求め、また、教えを聞きたいと願う群衆が押し寄せてきました。この群衆を見てイエス様は山に登って説教をされました。同様の内容がルカ福音書では山を下りて平野でなされています。ルカではイエス様は弟子たちに教えられたと記されています。山上の説教でも山に登ったイエス様は腰を下ろした、すると弟子たちが近くに寄ってきたとありますから、イエス様は主に弟子たちに教えを語られたと考えるべきでしょう。そして、その周りにいた群衆たちもその教えに耳を傾けていた、そんな状況がここには示されています。

 さて、5章には9の教えが記されていますが、その最初、つまり山上の説教の最初に置かれているのは、「幸い」についての教えです。八つの幸いが示されているので「八福の教え」と呼ばれることもあります。5章の最初に「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」とあります。イエス様が見た群衆とはどんな人たちだったのでしょうか。それは、病を負った人、悪霊にとりつかれた人、そして、教えを請うている人たちです。もちろん野次馬のような人も大勢いたと思いますが様々な労苦を追って、すがる思いでいる人たちがそこにはいたと考えて良いでしょう。つまり、この人たちは、「幸せ」を求めてイエス様のもとにやってきたのです。幸せを求めて集まってきた人たちを見て、イエス様は「幸せ」について教えをなさいました。この幸いの教えの一つ一つの意味を見ることはできませんが、ここでイエス様は弟子たち、そして、イエス様のもとにすがってくる人たちに対して「あなたは幸せだ」と言っているように思えるのです。それは、彼らが望んでいる「幸せ」ではないかもしれません。しかし、ともすると私たちの求める「幸せ」はイエス様を誘惑したサタンの言葉の中にあるのです。「幸せ」を求めて誘惑に陥ると言うことがあります。一方で、イエス様の教えて下さる「幸い」は神様と共に、隣人と共に歩む幸せです。

 この幸いの教えに続いて、「あなた方は地の塩、世の光である」という教えが記されています。これは、「あなた方は神様から期待されている」と読めます。神様はあなた達を塩のように、そして、世を照らす光としてお用いになる、といっているのです。そして、これに続く教えはとても厳格で厳しい教えですが、それは、地の塩、世の光として神様の期待に応える生き方なのです。そこで大切なことは、神様の御心に従って生きると言うことです。律法学者やファリサイ人たちの義、それは、決めごとをしてそれを守っていればよいと言うことでした。決めごとを守ることで心がいっぱいなってしまい、他者の痛みがわからなくなると言うことが起こりました。人の心にふれることなく、人を裁いてしまうのです。イエス様は律法に込められている神様の心に思いを寄せなさい、とおっしゃっているのです。そして、人を裁くのではなく人を赦し、人との間に和解を求めるものになりなさいと教えておられるのです。姦淫と離縁に関する教えには当時の男の特権に対する批判が込められています。女性の心の痛みを全く考えていない律法解釈を批判しています。

 「幸せ」の教えに始まる、「山上の説教」、これは人を幸せにする教えといって良いでしょう。しかし、その幸せは、決して私の思い通りになるということではありません。他者と共に幸せになる幸せです。誰かの悲しみ、たとえそれが敵であったとしても、他者の悲しみや不幸に無関心な幸せであってはならない、ましてやそのような痛みの上に成り立つ幸せであってはならないとイエス様はおっしゃっているのではないでしょうか。