2008年 6月29日


12人の使徒(弟子)たち(神学校週間)
聖書 マルコ 3:13〜19
 私は大学を出てすぐに牧師になることを目的に私たちの教派の神学校である福岡の西南学院大学の神学部に入ったのですが、同学年の人が2人、そして、高校から直接進学してきた人が一人、それ以外の同級生は皆、年上で家族を持ってる方もありました。神学校に行きますと本当に様々な年齢、経歴を持った人が学んでいます。神学生は、様々な道を通って、しかし、等しく神様の導きの中で神学校での学びの時を過ごしてるのです。

 今日の聖書箇所には、イエス様が12人の使徒をお立てになった時の記事が記されています。この12人は、たぶん20代後半から30代前半ということで年齢こそそれほどの幅はありませんが、それぞれの経歴は様々です。今日の説教の準備のためにいくつかの註解書に目を通しましたが、共通して書かれていたことは「普通に考えた場合、同じ目的を持って協力することはきわめて困難と思われる人たちが集められている」ということでした。イエス様は、ご自分から声をかけて弟子たちを召されました。網の手入れをしていた漁師たち、収税所の前に座っていた収税人といったようにイエス様は彼らの職業や価値観、また、政治的な立場などを知っておられたことでしょう。ローマの手先として働いていた収税人がいる一方、ユダヤ主義者である熱心党のメンバーがいます。熱心党というのはユダヤの復興を願う人々で、時に過激な行動をとるグループでした。この十二弟子の紹介の中でも熱心党のシモンというように書かれています。

 そして、イエス様は十二人を召し出されました。聖書には、「これと思う人々を呼び寄せて」とあるように、イエス様がご自分の望まれる人を選ばれたことが記されています。ですから、イエス様ご自身が様々な価値観や職業、立場の異なる人を望まれていたことがわかります。そして、イエス様はこの十二人を単に弟子としてではなく、使徒としてお立てになりました。使徒というのは、主人の目的にかなう限りという条件はありますが、主人と同じ権限を委託された人たちのことをいいます。イエス様が使徒をお立てになった目的について、聖書に「ご自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」と記されているとおりです。

 この使徒たちはやがてイエス様が十字架に死に、復活されて天に帰られた後、エルサレム教会を築いてゆきます。イエス様はそのことを考えておられたと思います。イエス様を主と告白する彼らの信仰を基として教会は立てられ、その働きを始めてゆきました。

 イエス様は漁師であったペトロたちを弟子として招かれたとき、「あなた方を、人間をとる漁師にしてあげよう」といわれました。この導きは、漁師としての彼らの働きを認めておられたことを現しているのではないでしょうか。彼らは船と網を捨てて、イエス様に従いました。しかし、イエス様は彼らを漁師として召し出されたのです。それは、その人のそれまでの人生を含めてイエス様は、召し出されたということです。

 人生はリセットできませんし、やり直すことはできません。しかし、積み重ねることはできるのです。消してしまいたい過去があってもそれを消すことはできません。イエス様の周りに集まってきた人の中には、そのような過去を持って集まってきた人たちが大勢いたことでしょう。そして、イエス様の周りに集まってきた人たちは、イエス様がその過去を受け止めてくださっていることを感じたのではないでしょうか。

 もうずいぶん前になりますが、教会に一人の人が訪ねてきました。「私は罪人です」といったその人は自分の過去を語り始めました。私は黙って聞いていたのですが、一通り話したその人はこういいました。「牧師さんは驚かないのですか」。そう、私に尋ねたのです。私は、驚きませんよ、本当に大変でしたね、とそれだけいいました。その人は、とてもホッとした様子でそれから教会に通ってきてくださるようになりました。ただ、難しいのは、驚きませんよ、というとがっかりして帰って行かれた方もいるということです。私に過去を話してくださった方ですが、実は、それほど驚くような話ではなかったのです。いわゆるよくある話でした。しかし、その人にとってそれは重大事です。よくある話といっても当事者と傍観者では全く重みが違うでしょう。そして、それを受け止めきれないでいたのです。そして、またそれを誰かに受け止めてもらいたいと願っていたのでしょう。自分一人では受け入れられないことでも誰かがそれを受け止めてくれたなら、それを自分でも受け止めることができる、そういうことが起こります。

 イエス様の十二使徒たちは、イエス様に選んでいただいた者たちでしたが、イエス様がとらえられて時にちりぢりになった逃げてゆきました。そういう意味では、ユダも他の弟子たちも変わりありません。ただ、ユダは自分で決着をつけようとしました。まさに、リセットしようとしたのです。そして、ユダは自らの命を絶ってしまいました。他の弟子たちはリセットできないままにいたのですが、彼らのその過去をイエス様が受け止めてくださったのです。弟子たちは、過去を消すことができませんでしたが、その人生の上に新しい人生を積み上げてゆきました。そして、イエス様はその人のそれまでの人生を用いてくださいます。

 異なった賜、異なった経験、一人一人の異なった人生をイエス様は大切に受け止め、それを用いてくださいます。だからイエス様は当時の常識からすれば考えられないような人事をなさったのです。そして、それは今も変わりません。ぶつかれば修復不可能になってしまうかもしれない危うさを持ちながら、それでも教会は立ち続けています。宗教改革の時代には、まさにそのような衝突が起こりました。悲しいことですけれども、多くの血が流されました。権力や政治に利用された面もありますが、やはり、教会はそのような歴史を持っています。今の時代にもそのようなことが起こります。血は流れなくても、痛みを覚えることがあります。しかし、それでも教会は立ち続けます。異なっていることが喜びになるようにとイエス様が私たちを招いておられるからです。

 ちょうど私が神学校に入る少し前に、新共同訳聖書が新旧併せた形で出版されました。

翻訳に関わった先生も神学校におられましたので学びの機会もありました。その時、「カトリックとプロテスタントの共同というのは妥協ではないか」という質問がありました。それに対して、「本当に誠実な議論を重ねてこの形になった、翻訳に完全はない、それは関わった者がよく知っている。これからも、よりよい翻訳が生まれることを願っています」という答えがありました。そして、共同訳という者が試みられるようにあるまで、宗教改革から四百年以上の時間がかかっています。その重みを感じてほしいという言葉がありました。人間は、主義主張に立って異なった価値観を持ち、異なった歩みをします。神様はそれを良しとしておられるのです。しかし、異なった者がばらばらではなく、共に歩むことを神様は願っておられるのです。イエス様の十二弟子の任命にはそのような神様の御心が現れているのです。

祈り

 主イエス・キリストの父なる神様、あなたの御子イエス様は異なった人生を歩み、考え方や性格の異なる十二人を使徒として召されました。そして、彼らに大切な働きを託されました。異なった者が共に生きる、この当たり前で困難なことをあなたは求められました。今もあなたはそのように私たちを召してくださいます。あなたが望んで、私たちを召してくださいましたから、どうか、私たちがあなたの御旨に答えて歩むことができますように。

 この祈りと願い、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。