2008年 7月 6日


神の霊によって
聖書 マルコ 3:20〜30

 イエス様は12人のお弟子さんたちを使徒としてお立てになりました。イエス様が漁師であったシモン・ペトロとアンデレの兄弟を弟子として招いたとき、彼らは網を捨ててイエス様に従いました。同じ漁師であったゼベダイの子ヤコブとヨハネは父と雇い人たちを船に残してイエス様に従いました。彼らは、仕事を捨て、家族をおいてイエス様に従いました。そして、イエス様ご自身も仕事を捨て、家族をおいて公の活動を始められたのです。イエス様の父ヨセフは大工でした。イエス様は長男でしたから当然大工を嗣いでいたはずです。しかも、イエス様がお生まれになったときと12歳でエルサレム神殿で両親とはぐれてしまったという記事以外、ヨセフは登場しません。そんなことから、イエス様がまだ若い時分にヨセフは亡くなったのではないか、といわれています。当時はまだまだ封建的な社会でした。ですから、職業を選択する自由というのは認められていませんでした。特に長男は家の仕事を嗣ぎます。もし、家業を子供が継がないと家の経済が困るということもありますが、その村や町といった集落から、その仕事をする人がいなくなってしまうことにもつながりました。ですから、イエス様がナザレの村を離れて宣教活動を始めたというのは家族にとってとても深刻なことだったのです。

 今日の聖書箇所には、イエス様の身内の人がイエス様のことを取り押さえにきたということが記されています。イエス様の働きとその評判はガリラヤ地方一帯に広まっていました。当然、イエス様の家族や身内の者たちの耳にもその噂は入ったことでしょう。そして、イエス様のめざましい働きも身内の者たちにとっては迷惑な話だったのかもしれません。しかも、イエス様の噂の中には好ましくないものもたくさんありました。ファリサイ派や妻子、そしてその仲間の律法学者たちとイエス様は対立していました。当時の宗教の中心にいた人たちであり、社会的もエリートたちでした。彼らの中にもイエス様の教えに耳を傾け、その正しさを認めていた人たちもいました。しかし、多くはイエス様と対立し、イエス様のことを殺す相談さえ始まっていたのです。殺すというのは命を奪うということだけでなく、人格を否定することでもあります。ですから、イエス様の人格を否定するような噂、誹謗中傷を彼らは流していました。そして、イエス様の身内の者たちはその噂を真に受けたのです。このことをとってみても、身内の人たちがイエス様の活動を快く思っていなかったことがわかります。身内の者たちにも良い噂やイエス様の癒しの力の偉大さは伝わっていたでしょう。しかし、彼らはイエス様は「気が変になっている」という噂や、「癒しも悪霊にとりつかれて行っている」という律法学者たちの話を信じたのです。

 イエス様の噂が広まる中で、身内の者たちの平穏な生活は脅かされたことでしょう。そして、家の仕事を放りだしていったイエス様のことを快く思っていなかったのでしょう。私たちは何かの判断をするとき、自分に関わりのあることかどうかでその判断が変わってきます。そして、自分にとって得か、損かということで判断が異なってきます。総論賛成、各論反対ということが起こります。全体としては賛成だけれども、実際に行うとなると今度は自分の損得が判断の基準になってきてしまいます。そこで、大きな目標は一致しても実際に行うとなると空中分解してしまうということが起こってくるのです。イエス様の身内にとって、イエス様の活動は好ましくないことだったのです。

 身内の者たちがイエス様を取り押さえにきたとき、イエス様は譬えを持って、律法学者たちの話していることの間違いを指摘なさいました。もし、イエス様が悪霊の頭であるベルゼブルの力によって、悪霊を追い払っているとすれば、それは、サタン同士の内輪もめではないか、とイエス様は指摘されました。内輪もめというのは大変おおきなエネルギーを消耗します。そして、内輪もめをしていたら外に向かう力は消耗されてしまいます。そして、もめ事が収まった後にも深い傷が残ります。

 イエス様はこの譬えを通して、身内の人たちに、身内どうして争うことの愚かさを示しておられます。この後、今度はイエス様の母と兄弟たちがイエス様の元にやってきます。家族もこの身内の人たちと同じ考えだったようですが、やがて、イエス様の母マリアと兄弟はイエス様と行動をともにします。マリアは十字架のもとにもおりました。そして、初代教会で働きを担って行きます。イエス様の言葉を彼らは受けともていったのです。

 そして、イエス様はこの譬えを通して、イエス様を非難した律法学者の考えのおかしさを示しています。彼らはイエス様を陥れようということばかり考えていました。彼らはイエス様のことを批判しましたが、現実に起こっている癒しを目の当たりにしたとき、彼らはそれをサタンの働きだというほかなかったのです。私たちは自分の願いが叶うことを望みます。そして、それを阻止しようとする人、自分にとって都合の悪い存在を悪魔呼ばわりします。そういうことは現代でも起こることなのです。敵を悪魔に仕立て上げることで、自分の正しさを主張しようとするのです。しかし、彼らは、イエス様が悪霊を追い出す力のある方だということを知っていました。現実を目の前にして、それを否定することはできませんでした。だから彼らは、イエス様は悪霊によって、そのような力ある業を行っていると言ってしまったのです。イエス様は彼らの批判が理屈に合わない感情的なものであることを譬えを通して明らかにされたのです。

 イエス様は、とても厳しい言葉でこの教えを閉じています。神様のみ業、その救いの出来事を否定することは、聖霊を冒涜することです。人々が病から解放されている現実、神様から遠く離れていると思っていた人々が神の導きの中で福音にふれている。このような救いは神の霊のよって、聖霊によって与えられる喜びです。そして、その救いはすべての人を招いています。しかし、救いを拒否するものは神様もまたその人を拒むのです。神様の愛は無償で、一方的に愛してくださいます。しかし、一方的な愛も受け止めなければ何の意味もありません。ですから、イエス様は私たちに信仰を求めておられるのです。意志を持って神様の愛を受け止めることが求められているのです。神様の前にすべては許されます。しかし、私は許されなくても良い、という人は許される喜びを知らずに生きなければならないでしょう。ですから、私たちは許されている喜びを証しします。神様の一方的な愛に気づき、それに応えて生きていることの喜びを私たちは証しするのです。神の霊によって、与えられた救いの喜びを証しして参りましょう。


祈り

 主イエス・キリストの父なる神様、今日の主の日もこうして教会に集い、あなたに愛されている喜びを分かち合えることができましたことを感謝いたします。あなたの愛に気づき、あなたの愛を受け止めることができた幸いを感謝いたします。あなたの愛と許しを必要としながら、それに気づかずに歩んでいる人たちがいます。あなたの愛を拒んで、自分の力で生きている人たちがいます。神様、あなたの愛を受け止めることができた喜びを伝える器として私たちをお用いください。

 この祈り、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン