マタイによる福音書 1章


 今日から祈祷会では新約聖書を毎週1章ずつ学びます。最後までたどり着くには何年か掛かりますが、丁寧に聖書を通読して行きましょう。

 マタイによる福音書はユダヤ人を念頭に置いて書かれた福音書だと言われます。例えば、1章にいきなり登場する系図にそれは現れています。ここに記されている系図はユダヤの歴史そのものです。私たち日本人には親しみにくいカタカナの名前が羅列されているだけのわかりにくい系図ですが、旧約聖書をよく学んでいるユダヤの人々にとってここに出てくる名前はおなじみの名前です。私たちが、織田信長と聞けばイメージが思い浮かぶように、ここに出てくる名前を聞いただけでユダヤの人にはイメージが浮かんできます。ですから、ユダヤの人々にイエス様のことを伝えるためにマタイはこの福音書を書いたのだと言われます。しかし、実際はクリスチャンになったユダヤ人を対象に書かれた福音書といった方が正確かもしれません。つまり、伝道のためではなく、クリスチャンの信仰の成長と教会の成長を願って書かれた福音書といえるでしょう。ですから、ユダヤ人に対して親切なだけでなく、ユダヤ人キリスト者に対して信仰的なチャレンジをしているのです。そういう意味で、今日の箇所であるマタイの1章はユダヤ人にとって、ドキッとするような挑戦的な内容を含んでいるのです。

 この系図は、イエス様が聖書に預言されたメシアだと言うことを表しています。14という数字はダビデを象徴する数字です。そして、アブラハムからダビデ、そしてイエス様に至るまでそれが三回繰り返されます。3というのも完全数ですからこの系図の表している数字はとても意味のあることなのです。しかし、この系図には通常のユダヤの系図とは異なる点があります。それは、女性が出てくると言うことです。しかも、それはユダヤ人にとって見れば異邦人の女、そして、不義の女です。純血であることを重んじ、律法にかなった正しい生活を求めている人々にとって、できれば、隠しておきたい過去があらわにされています。そして、これはすべて聖書に記されているダビデの家系なのです。

 聖書は人を神格化しません。しかし、聖書には神の前に間違いを犯しても、悔い改めて赦しを願う者に憐れみを与えて下さる神様の愛と恵みが示されています。そして、その愛と憐れみは王に対しても、異境の地で育った女にも等しく与えられていることをこの系図は示しています。それは、系図だけではありません。旧約聖書そのものに示されていることです。マタイはこの系図を通して、ユダヤ人の歴史は神様の愛と赦しの歴史であることを示そうとしているのです。たとえそれが、誇るべき立派な歴史であったとしても、そこには弱さ、過ち、不信仰をぬぐい去ることはできません。大切なのは神様の前に誇ることではありません。大切なのは神様の恵みを信じ感謝すること、隣り人の前に誇るのではなく隣り人を愛し憐れむことなのです。ユダヤの人々は敵を討ち滅ぼして欲しいと願っていましたが、神の御子は「敵を愛しなさい」と教えられました。神の御子は人を裁くためではなく、愛し、赦すために私たちの世に来て下さいました。キリスト、救い主は私たちを罪から救うお方です。

 そして、イエス様誕生の場面でヨセフに求められたことも、神様の恵みを信じ、マリアを愛し憐れむことでした。この系図とイエス様誕生の物語は神様の人へのチャレンジが込められています。それはユダヤ人だけではありません。そのチャレンジは、自分の罪を認め、その罪を赦して下さる神の愛を信じること。そして、人を分け隔てせず、私の隣り人として愛と憐れみを持って接するというチャレンジです。

 イエス様の誕生から2000年を経た今、私たちにクリスチャンに求められていることも同様です。神様の恵みを信じ、感謝を忘れないこと。そして、隣り人への愛と憐れみを忘れないことです。共にいて下さるという神様の約束を信じ、聖霊の助けを求めながら神様のチャレンジに応えてまいりましょう。