マタイによる福音書 2章


 マタイによる福音書2章にはイエス様の誕生にまつわる三つの出来事が記されています。第一は東の国から来た占星術の博士たちの物語、そして、二つめはイエス様の家族のエジプトへの避難と帰還、そして三つ目はヘロデ王による子供皆殺しという残酷で痛ましい出来事です。今、私たちが華やかに、そして、ロマンティックな日としてとらえているクリスマスの背景にはこのような恐ろしく残酷な出来事が起こっていたのです。そして、福音書記者マタイが様々な伝承の中から選び、書き連ねたこれらの出来事は1章の系図同様、ユダヤ人に対するチャレンジが込められていました。ここで、確認しなければならないことはマタイは決して反ユダヤ主義者ではなかったということです。そうではなく、同じ仲間として、間違った道に行くことがないようにという願いを込めたチャレンジなのです。そこには同じ傾向を持つ仲間だからこそ気づくことがあったのでしょう。そして、それは表面的には当時のユダヤ人キリスト者によく見られたことであったとしても、掘り下げてゆくと、どの時代に生きるどの民族の人にも当てはまることなのです。ですから、現代のこの日本のクリスチャンもマタイからチャレンジを受けているのです。

 まず、この2章に登場する博士たち、聖書には占星術の博士と記されています。占星術といっても星占いということだけではありません。現代の天文学者に相当します。しかし、それでもこの人たちはユダヤの人たちからすれば、異教徒であり、真の神を知らないと見なされていた人たちです。ところが、神様はそのような人たちに御子の誕生を知らせたのです。神様は唯一の神様です。唯一であるということは、全ての人の神様です。神様はイスラエルの民を通して、ご自身を人々に現そうとされました。イスラエルに使命を与えられてのです。しかし、イスラエルはそれを特権と勘違いしてしまいました。神様を証しするのではなく、神様を自分たちの専有物としてしまったのです。これは教会も同じです。神様は教会を通して世の人々に宣教しようとしました。しかし、教会は長いことそれを教会の占有する権限と考えてしまいました。そして、教会の外で働かれる神様の御業を否定してきたのです。この博士たちの出来事には、神様の御言葉に従って行動した異教徒と御言葉を知っていても行動しようとしないユダヤ人とが対照的に描かれています。ユダヤ人たちは、行動しないだけでなく、今、持っている権力や生活の安定を重視して神様の言葉を否定しようとしたのです。自分たちの権利や権力を守るために、聖書の預言の言葉を使って幼児大量虐殺という蛮行を計画し、実行してしまったのです。預言を否定するために、預言の言葉によって「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺した」のです。しかし、それによって預言を成就を阻止することはできませんでした。かえって、預言の言葉が成就していったのです。

 この出来事の中に、預言を成就させるためには大勢の子供を殺すことさえいとわない神の冷淡さを感じる人もいるでしょう。しかし、同時にここには人間の愚かさと残虐さが現れていることもまた事実です。神様は預言を成就させるためには冷酷な方なのでしょうか。ヨナの出来事はそうではないことを現しています。神様が滅ぼすと預言されたニネベの街の人々は神様の前に自らの罪を認め悔い改めました。そして、その時、神様は預言の言葉を撤回されました。ヘロデにもチャンスはありました。彼は、博士たちの言葉を聖書を用いて確認しました。そこに書いていることは正しいと知っていたのです。しかし、ヘロデは従おうとしませんでした。そして、ヘロデが死んだ後その跡を継いだアルケラオもまた同様の王だったのでしょう。ヨセフは都を避けてナザレに住みました。そして、ここにもマタイは預言の成就を見ているのです。

 歴史を振り返る時、教会もまた神の名によって戦争を支援し、聖書の言葉を振りかざして殺戮に荷担してきた事実からは逃れられません。ユダヤ人か否か、クリスチャンか否かが問題ではありません。聖書をどう読み、どう行動するかをマタイは問うているのです。