2008年 7月20日


実を結ぶ信仰
聖書 マルコ 4:1〜20
 イエス様はガリラヤ湖畔のカフェルナウムという町を拠点として活動をなさいました。そこでは、ご自分の家、町のなかの会堂(シナゴーグ)、そして、野外で人々に神様のお話をなさいました。湖の畔はイエス様がよくお話をされた場所です。

 イエス様の周りにはいつも大勢の人々が集まっていました。イエス様は身元に集まって来た人たちに船に乗って湖の上から話をされました。3章9節に書かれていたようにイエス様は群衆に押しつぶされないように湖の上から話をされたのです。そして、湖から陸に向かって風が吹いてくるので、大勢の人にも声がよく聞こえるという効果もあったようです。イエス様は湖畔の群衆に譬えを使っていろいろとお話をされました。イエス様の譬えには、「良きサマリヤ人の譬え」のような物語仕立てのものと、山上の説教で「野の花を見なさい」と言われたように、日常の情景をそのままお話になるものがありました。今日の箇所の譬えは、そのような日常の風景をそのまま話されたたとえ話です。

 私たち日本人が畑で見る種まきというのは、畑を耕してから種をまきます。ガーデニングなどをされる方も言いますが、土作りが大切なのだそうです。ところが、当時のイスラエルの種まきというのは、耕す前に種をまいて、その後で土と種を混ぜるようにして耕すのだそうです。ですから、耕す前の堅い土の上を種が転がってしまいます。そして、道ばたや石の多いところなど適当でない場所に種が行ってしまうことがあったのです。そのような日常の中の一場面を通してイエス様は真理を語りかけてくださるのです。

 ここには、蒔かれた種の中には実るものと実らないものがあったことが描かれています。ホームセンターなどに売っている種の袋に「発芽率90%」というように書いてありますから、種そのものの中に発芽しないもの、実らないものがあるわけです。しかし、イエス様の譬えではそのようなことは念頭に置かれていません。つまり、種そのものは皆同じで変わりはないのです。あくまでも、どこに蒔かれたかが問題となっています。さらに言えば、良い地に蒔かれた種にも三倍以上の実り方の差があります。13節以下の解説にあるように、実らない理由は様々です。そこに示されていることはどれも私たちにとって身につまされるものばかりです。私たちを試みる者によってすぐに種が奪われてしまう、聖書を読んだり、証しを聞いたとき、すぐに素晴らしい、素晴らしいといってもすぐに忘れてしまう。これは良いことだと思って始めても、根がないのでしばらくして困難なことが起こるとすぐに投げ出してしまう。大事なこと、大切なこととわかっていても目の前のことに心が奪われてしまって、大事なことをしない。私の場合ですが、どれも思い当たるものばかりです。

 イエス様は大勢の人々が押し寄せてきて教えを請うていても、話したことが伝わらないという現実を知っておられました。イエス様は弟子以外の人々について予言者イザヤの「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして立ち帰って赦されることがない」という言葉によって、語っておられます。さらに言えば、譬えを使わずにストレートに教えていたであろう弟子たちさえも、イエス様の教えを十分に理解することはできていませんでした。やがて、イエス様の受難と十字架の時が来てその現実が明らかになります。そして、イエス様は「この譬えがわからないのか。ではどうしてほかの譬えが理解できるだろうか」とおっしゃっています。弟子たちが譬えの意味を理解できないでいることを嘆いておられるのです。このイエス様の言葉が示しているのは、ここで語られた種まきの譬えは最も基本的な譬えだと言うことです。そして、そこには「これはあなたたち自身のことなのだ」という意味が込められているように私には思えるのです。

 イエス様が、日常の出来事や自然の風景の一場面を描いた譬えとして語られたのはなぜでしょうか。それは、私たちの身の回りで起こる日々の出来事や自然の出来事の中に神様からの語りかけがあるからです。人は学ぶことによって変わります。私がかつて教育の勉強をしたときです。小学校の現場の先生が話してくださったことがあります。その先生は「大切なことは子どもが学んだかどうかです。教師にとって大切なことは自分が何を教えたかではなく、子どもが何を学んだかです。学ぶことの喜びを伝えるのが教師のつとめです」といわれました。そして、林武二さんという教育者の本を紹介してくださいました。学んで理解する、そのことを通して最初は自分には関係ないというふうに斜に構えていた教室の子どもたちの顔が活き活きと変化してゆくのです。そこには気づきがあります。それは、自分と関係ないと思っていたことが自分に関係のあること、大切なことだと気付くことです。そして、それは世界が広がることでもあります。

 イエス様は気付くことを願っておられました。それは敵対していたファリサイ派の人々や祭司たちに対しても同様です。イエス様は十字架上で七つの言葉を話されたと伝えられていますが、その中にご自分に向かって罵詈雑言を浴びせかける人たちに対して語られた言葉があります。それは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という御言葉です。ファリサイ派の一員としてイエス様に強い敵対感情を抱いていたパウロは、復活のイエス・キリストとの出会いという経験を通して人生が180度変わってしまいました。パウロが改心したとき、目から鱗のようなものが落ちたと聖書にあります。見えなかったものが見えるようになったのです。

 以前、出会った一人のご婦人の話です。教会の英会話教室に通っていたその方は聖書も英語のテキストと割り切っていました。自分には関係のない荒唐無稽な話と思っていたそうです。しかし、家庭に大きな問題を抱えてしまったとき、それまで自分に無関係だと思っていたイエス様のお話が心に響いてきたというのです。そして、それまではおつきあい程度に思ってたまに出席していた礼拝のメッセージを「自分のために語られている」と感じたというのです。牧師の話が特に変わったわけではありませんでした。「種」は同じです。

しかし、心が砕かれたとき、そこは良い地となって「種」は実りを結んだのです。

 イエス様のメッセージを理解できなかった弟子たちも、イエス様を理解するものになりました。そして、毎年、種まきの季節を迎えたときにイエス様の譬えを思い出したのではないでしょうか。そして、あの日、湖畔にいた群衆の中にも同じ季節の中で、イエス様の譬えの意味に気付いた人もいたのではないでしょうか。イエス様はその日のくることを期待して、群衆たちに、そして、ファリサイ派の人々にも語り続けられた。私にはそのように思えてならないのです。


;祈り

 主イエス・キリストの父なる神様、今日の主の日もこうして市川大野キリスト教会に集い、ともにあなたに礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。

 イエス様は心のかたくなな人々にもメッセージを語り続けられました。届いていないことを承知で、しかし、いつか心に届き、人生を変える実りの日の来ることを期待して、イエス様は語り続けてくださいました。

 2000年の時を経て、今、私たちのもとにもこのメッセージが届いています。どうか、聖霊によって私たちの心を耕してください。そして、イエス様を信じる喜びの実りを豊かに実らせる者として、この地上の人生を歩むことができますように。

 この祈りと願い、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。