2008年 6月22日


素直な信仰 (神学校週間)
聖書 使徒言行録 17:10〜15
 今朝は、使徒言行録の記事からご一緒に学んでいきたいと思います。ここにはパウロが第二回目の伝道旅行でベレアという町を訪れたときの出来事が記されています。パウロは三回の伝道旅行を行っていますが、一回目と二回目、三回目を比べますとその旅行の距離がずいぶん違います。一回目に比べて二回目三回目はずっと規模が大きくなっています。そして、一日目と二回目の間には規模だけではない大きな違いがありました。それは、一回目の伝道旅行の後にエルサレム会議が開かれたと言うことです。パウロを初めとする使徒たちは、ユダヤ人キリスト者でした。そして、ユダヤ人キリスト者の多くは律法を守ること、その中でも割礼を受けることがキリスト者になる条件だと考えていました。しかし、イエス様の福音は民族を越えて広まっていましたから、ユダヤの律法を知らない異邦人たちも福音を受け入れて救いの確信を得ていました。パウロは、自身の経験を踏まえ、イエス様の無条件の救いを信じていました。律法の通り割礼を受け、ユダヤ人としての誇り高かった自分が、実は神様の御心から遠く離れていたこと復活のイエス様の出会いを通してをパウロは知りました。割礼を受けたユダヤ人も異邦人も区別無く神の前に罪人であり、その罪を赦すのはイエス・キリストの十字架のみであるという確信をパウロは与えられていたのです。激しい議論の末、エルサレム会議でパウロの考えが認められました。

 このような経緯を経た後の第二回目の伝道旅行はパウロにとっても、心に期するところがあったと思います。しかし、この伝道旅行の中でパウロは多くの迫害を受けました。特にユダヤ人たちはパウロに対して強い反感を持っていました。ユダヤ人にとって、キリスト者となったパウロは裏切り者です。しかも、パウロは十字架によって律法が乗り越えられたといいます。ユダヤ人たちは律法が否定されたと感じたことでしょう。パウロの語る教えがユダヤ人にも、そして、多くの異邦人たちに受け入れられてゆくことを彼らはねたましく思いました。そして、テサロニケの町でユダヤ人たちは暴動を起こしたのです。そのため、テサロニケにいられなくなったパウロはベレアの町に逃げてきたのです。

 パウロは逃れてきたベレアの地でも福音を語り続けました。そして、ユダヤ人たちの多くのものが福音を受け入れたのです。ベレアのユダヤ人たちは、イエス様の御言葉を受け入れると共に、聖書に基づいているかどうかを真剣に調べたのです。そして、彼らはイエス様の教えは聖書に反しない、言い換えれば律法に反していないと言うことに気付いてゆくのです。そして、ルカは使徒言行録で彼らのことを「素直だ」と言っているのです。

 テサロニケのユダヤ人たちは、変わることを拒みました。そして、自分たちとは考えの違うパウロが受け入れられるのを見て妬んだのです。きっと彼らは自分たちの考えに合わせて聖書を読んでいたのでしょう。そして、自分たちの都合に合わせて聖書を解釈していたのです。けれどもベレアのユダヤ人たちは自分たちの都合や価値観に合わせることなく聖書を読んでいたのです。何かを学んだとき、人は変わります。ある人は劇的に、またある人は少しずつ、変化の仕方に違いはあっても何かを学んだら人は変わります。変わらないならば、教わっていても学んでいないのです。ベレアの人々の「素直」さ、それは変わることを恐れないと言うことです。そして、素直であることは流されると言うこととは違います。自分自身が変わることを恐れずに真剣に聖書に向かう、それが素直さであり、ベレアのユダヤ人たちの大きな救いをもたらしました。そして、その姿勢はバプテストの目指す姿でもあります。

 信仰は私の信念が砕かれることによって、深められ、整えられて行くものです。パウロは導きの中で砕かれ、イエス様と出会いました。そして、アナニアの導きで聖書と向かい合い、素直な心で受け入れ、変えられました。神学校で学んでおられる方々が、そして、私たちも変わることを恐れずに真剣に聖書に向かい合うものでありたいと思います。

祈り;

 主イエス・キリストの父なる神様、イエス様の復活を覚える主の日、共に礼拝を捧げる恵みに感謝いたします。

 神様、私たちはあなたの導きの中で救いを与えられ、あなたの御手の中で変えられました。そして、あなたは教会の枝として私たち一人ひとりに奉仕の機会を与えてくださいました。そして、ある人には神学校で学ぶ機会を与えてくださいました。主よ、神学校の働きを豊かに祝福してくださいますように。そして、あなたの良き器が整えられてゆきますように。私たちもまた、御言葉によって、砕かれ教会の良き奉仕者として歩むことができますように。

 この祈りと願い、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。