マタイによる福音書 6章


  マタイによる福音書の6章は5章に続いて「山上の説教」です。ここには、イエス様の教えが七つ記されています。5章は最初に記されている幸福の教えにポイントを置いて学びました。誰もが幸せを求めます。そして、神様は私たちが幸福になることを望んでおられます。ただ、神様は私たちが求める幸福について、問いかけておられます。あなたの求める幸福は、神の御心にかなっているか、そして、隣り人への配慮を欠いていないかと問うておられるのです。神との交わり、そして、隣り人の交わりという二つの関係はまさに律法の基本です。十戒の前半、後半がそれぞれ、神と人、人と人の関係に関する掟であることはそれを示しています。また、イエス様が示して下さった最も大切な律法も、神様を愛することと隣り人を愛することでした。

 マタイ6章に記されている山上の説教を学びますが、神と人との関係と言うところにポイントを置いてこの箇所を見てゆきたいと思います。

 まず、6章は施しに関する教えに始まります。ここでイエス様が教えて下さっているのは、神様の眼差しを感じながら生きて行きなさいと言うことです。それは決して神様の視線を感じて恐れなさいと言うのではありません。神様は見ていて下さる、知っていて下さるから安心しなさいとイエス様は示しておらます。イエス様の周りに真剣な思いで集まってきた人たちは、様々な問題を抱えている人たちでした。貧しい人も多くいました。とても人前で自慢できるような施しができる状態ではない、そういう人たちがいたことでしょう。良いことをする時にさえ引け目を感じている人たち、そんな人たちに対して人の目は気にする必要はないということをイエス様は教えて下さっているのです。

 神様が見ていて下さると言うこと、それは、慰めですが、厳しい言葉でもあります。これを慰めと感じるか、厳しいと感じるかは神様の問題ではなく私たちがどのような状態か、どのように生きているかと言うことが問題なのです。次に、イエス様が教えて下さったのは「主の祈り」です。この祈りにも、神様の眼差しの中で生きる者の思いが祈られています。神様の御心に沿って生きることができるようにとの願いが、ここに込められています。

 イエス様とファリサイ派や祭司たちとの間には様々な違いがありました。律法に対する態度の違い、神様の愛に対する理解の違いなどです。そのような中に、この世の価値に対する考えの違いがありました。ファリサイ派や祭司たちは、神様に祝福されている人はこの世に置いても祝福されている、と考えていました。富、能力、健康、そういったものが豊かで、良ければ神様に祝福されていると考えました。聖書には確かにそういう記述があります。そのような考えを聖書は否定しません。しかし、それが全てではないということも聖書が示しているところです。神様の前に富まなければ、やがて、この世の富を失った時に何も残らないからです。なぜならこの世の宝は道具だからです。神様に従ってこの世で価値あるものを用いるならば、その人は神様の前にも豊かになるでしょう。しかし、この世で価値あるものを使って神様に刃向かうこともできるからです。そして、4章のサタンの試みが示しているように、サタンは道具を持ってきて、それがあたかも人生の目的であるかのように人の心を惑わすのです。

 山上の説教のイエス様の教えには、厳しい響きをもった教えがあります。しかし、その根底にあるのはイエス様の優しさであり、慰めです。「思い悩むな」と言われたイエス様は、神様の愛に気づくようにと促しておられます。そして、あなたの価値は神様に愛されていることによって保証されているとイエス様は示しておられるのです。イエス様が求めよと言われる「神の国」、つまり神様の支配は愛を持って人を生かす支配です。そして、「神の義」は神様の愛を全うすることです。ですから「神の国と神の義を求めなさい」ということは、神様を信頼して委ねなさいと言うことです。神様は、あなたの苦労をわかっておられる。だから、明日のことは神様に委ねなさいとイエス様は教えておられるのです。