2008年 7月27日


光を掲げて生きる
聖書 マルコ 4:21〜34

 先日、日本語に関する調査のニュースが報道されていました。そこで、本来の意味とは違った使い方がされている言葉として「煮詰まる」という言葉が紹介されていました。「会議が煮詰まる」というのは「話し合いが進んで、結論が見えてきた状態」を意味しますが、多くの人は「話し合いが行き詰まって、結論が見えてこない状態」と理解しているというのです。実は、私もそのように誤解していました。よく考えてみると「煮詰まる」と「行き詰まる」が混同されていたようです。また、「詰まる」という言葉の雰囲気に左右されていたようにも思いました。。

 今日の聖書箇所でイエス様は「隠れているものは、あらわになる」とおっしゃっています。いうことが示されています。この言葉を聞くとどんな状況を思い浮かべるでしょうか。悪いことはいずれ明るみに出る、というように思われるのではないでしょうか。日頃使っている言葉の用法や雰囲気ではそのように理解できるでしょう。悪事を人の目には隠し通せても、神様の前では明るみに出されるというのはキリスト教の考え方でもあります。しかし、この箇所をよく見てみるとどうもそうではないようです。

 ここでイエス様は、「秘められたもので、公にならないものはない」ともおっしゃっています。「秘められたもの」とは何でしょうか。この直前に出てくる、「種まきの譬え」でイエス様は弟子以外の人々に譬えで話す理由を弟子たちに説明しています。そこで「あなた方には神の国の秘密が打ちあけられているが、外の人々には、すべてが譬えで示される」とおっしゃっています。このイエス様の言葉と関連づけてみると、この「秘められたもの」とは「神の国の秘密」のことといえるでしょう。

 パウロはコリント第1の手紙15章で、復活について記しています。死を飲み込んでしまう勝利、復活によって与えられる永遠の命についてパウロは語ります。そこで、パウロは朽ちる命が朽ちないものに変えられてゆくことを「神秘」だといいます。それは、私たちの力では、理解できないということです。しかし、この秘密は必ず解き明かされる、秘められていた救いの道は、明らかになって人々に示されるとイエス様はおっしゃっているのです。そして、それはイエス様の十字架と復活を通して、まず弟子たちに示されました。

 私たちクリスチャンはそれぞれ異なった導きの中で、イエス様を信じる信仰に導かれました。クリスチャンを親に持つ人もそうでない人も、理解ある環境の中で導かれた人も逆風の中で導かれた人もいるでしょう。なぜ、信じるに至ったのか、それは不思議な導きとしか説明がつきません。しかし、聖霊の導きの中でイエス・キリストによる救いの事実を示されました。

 復活のイエス様に出会うまで、弟子たちもイエス様が本当におっしゃりたかったことを理解できていませんでした。弟子たちは、この地上で高い地位に就くことを願っていました。今、生きているこの地上での命のことしか考えていませんでした。それは当然のことといえるでしょう。しかし、イエス様が伝えたかったことは永遠の命です。この地上での人生がどんなに悲惨な死で終わったとしても、それで終わりではないということをイエス様は私たちに伝えてくださいました。それは、この地上の人生が望ましいものでなかったとしても、それで終わりではない、それですべてではないということです。健康に恵まれなかった人、人と比べて秀でた能力がない人、財産が乏しい人、良い仕事につくことができなかった人、そのような人たちは神様から見捨てられている人だ、ということが常識だった社会でイエス様は「それは違う」ということを語り続けられたのです。しかし、それは理解されませんでした。弟子たちも同様でした。そして、イエス様はその現実を知っておられました。しかし、イエス様は必ず弟子たちが気付いてくれると信じ、希望を持っておられたのです。 

 イエス様は、続いて「成長する種」の譬えを語られました。この譬えは、種の中に込められている「命」の素晴らしさを示しています。種の中に込められている命、成長する力は人の知らないところでその力を発揮しています。パウロは「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」といっています。イエス様の譬えと同じことをいっているのですね。人は種を蒔き、手入れをする。そして、実りを刈り取ります。しかし、最も大切なのは神様が種に込めてくださった命です。それがなければ、どんなに丁寧に種を蒔き、心を配って手入れをしても実りは得られません。ですから、私たちに求められているのは、神様の与えてくださった命の力を信じることではないでしょうか。そして、命を生かす神様のみ言葉を信じることです。小さな種が鳥を宿すほどに成長するのです。私たちに与えられている福音には大きな力があります。人を救い、命を生かします。

 イエス様の弟子たちは、イエス様の教えを十分に理解していませんでした。イエス様は弟子たちの不理解を嘆いておられます。しかし、それでもイエス様は弟子たちの成長と成熟を信じて、大切な働きを託されました。そして、今、私たちのこともイエス様は期待してくださっています。信じて、福音を託してくださいました。

 灯火をともしてくださったのは、神様です。そして、神様は私たちを升の下に置いたり、寝台の下に置こうとされていません。私たちを、世を照らす光として燭台の上に掲げてくださいます。そして、その時、私たちは自分の力ではなく、福音の力を信じ、自分で光り輝くのではなく、福音の光を輝かせるのです。パウロは自らを土の器といっています。しかし、その土の器の中に神様はかけがえのない宝を入れてくださったといいます。価値があるから愛されるのではなく、愛が注がれてそこに価値が生まれます。それが、神様の愛です。価値を与える愛なのです。そして、この愛の根拠は、イエス・キリストの十字架です。十字架にかけられた、イエス様が指し示しているのです。 

 私たちの内には、聖霊によってこの神様の愛が注がれています。そして、その愛は成長し、人を慰め、人を支える愛となります。人々の人生を照らす光を輝かせるのです。そういう宝が私たちには与えられています。そして、そのような実りの日が必ず来ることをイエス様は信じて、期待して、今も私たちを、そして私たちの教会を導いてくださっているのです。

祈り

 主イエス・キリストの父なる神様、今日の主の日もこうしてともに礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。

 イエス様は福音を語り続けられました。わずか3年の働きの中で蒔かれた福音の種は実を結び、私たちのところへも福音が届けられました。そして、私たちは、十字架のイエス様の愛で、愛されていることを知らされ、それを受け入れることができました。私たちの内に蒔かれた福音の種が成長し、人を愛し、人を支える豊かな実りを実らせることができますように。イエス様の光を掲げて歩む者でありますように。

 この祈りと願い、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。