マタイによる福音書 7章


 「山上の説教」の最後です。マタイによる福音書の7章には新共同訳聖書の小見出しで見て六つの教えが記されています。前回は神様と私たちとの関係という視点で6章全体から学びました。そして、7章は人と人との関係に関する教えと言う視点で学びたいと思います。ところで、私たちが使っている聖書の章と節は16世紀につけられたもので、聖書の原文にはありません。ですから、中にはこの章立てや節による分け方がふさわしい場所にないものがあります。けれども、私たちが聖書を読む時やこうして学びをする際にとても便利ですし、やはりこの章と節はよく考えられていると思います。

 7章の最初に置かれている教えは「人を裁くな」という教えです。この教えは相手の悪いところについて、何もかも目をつぶれといっているのではありません。ここでイエス様は、人を裁くあなたは何者か、と問いかけておられます。そして、本当に大切なものをあなたは見ているのか、見えているのかと問いかけておられるのです。以前テレビで犬のしつけをする調教師さんのコンテストを取り上げていました。そこでは飼い主の言うことを聞かない犬、だめ犬をしつけるコンテストでした。そこで一人の調教師さんはもう一息で次のステージに上がれると言うところで、競技を中止しました。それは、自分が受け持った犬がもうこれで精一杯、十分がんばったと判断したからでした。その犬はひねくれていて、すさんだ目をしていた犬でした。ところが、その調教師さんとの出会いを通して素直でいい顔つきになって行きました。コンテストでは、もしかしたら厳しくすれば競技に勝てたかもしれません。しかし、その調教師さんは自分がコンテストで名誉を得ることよりも、犬のことを考えていたことがわかりました。勝ち負けや、うまくいくか行かないかを見るよりも犬を見ていたのです。人を裁くな、というのはあなたは、ちゃんとその人を見ているか、自分と同じようにその人を愛しているかという問いかけなのだと思います。

 「求めなさい」という教えでも、あなたは「与えているか」と問いかけているようです。神様はあなたによいものを与えて下さる。だから、あなたは人に対して求めるものをまず、あなた自身が与えなさい、それが神様の御心だと教えて下さっているのです。そして、狭い門とは奴隷や使用人が利用する通用口を指すと言われています。ですから、受験の難関とは全く異なります。イエス様が最後の晩餐の時に弟子たちの足を洗いました。それは、奴隷の仕事です。ですから、この狭い門の教えも「誰でも足を洗ってもらう方になりたがる、しかし、あなたは足を洗うもにになりなさい」と読み替えることができるのです。

 そして、イエス様は私たちの心の内側は必ず表に現れると言うことを木の実の譬えで教えておられます。ここでイエス様が「良い実」と言われているものは、後にパウロがガラテヤの手紙5章22節以下に書いている「霊の実」、つまり「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」と重なると言って良いでしょう。マタイ6章には、隠れているところを見ておられる神様のことが記されていました。隠れているところを見ておられる神様の前に良い心を持つように心がけていれば、それは、良い実として現れることでしょう。その逆に、人の目に触れるように表面だけを取り繕ってもやがてそのメッキははがれ落ちてしまうでしょう。言葉だけで「主よ、主よ」と言って信仰深く見せても、それは神様の前に何の価値もないからです。

 イエス様は、山上の説教の結びに岩の上に家を建てた賢い人の譬えを話されました。イエス様の言葉を聞いて、それを実践するのはたやすいことではありません。聞いて、行ってもそれは、不完全かもしれません。けれども、それでも実践に取り組むならば私たちは岩の家に家を建て、良い実を結び、天に宝を積むことになります。そして、それが私たちの人生の幸いとなるのです。雨風のない穏やかな幸いもあるでしょう。しかし、現実は雨が降り、川があふれ、風が吹きつけます。しかし、それでも倒れない、そこにこそ人生の幸いがあるのですから。