マタイによる福音書 8章


 イエス様のこの地上で大きく三つのことをなさいました。一つは、福音を伝える宣教です。そして、教えることと癒すことです。教会は今もこの働きをイエス様から託されています。教会は伝道します。イエス様の教え、つまり、神様からのメッセージを人々に伝える働きです。ここで大切なことは、伝える私自身がイエス様も教えをしっかりと理解すること、神様からのメッセージを受け止めるということです。宗教学という学びがあります。日本ではいろいろな宗教を比較して、それぞれの特徴を学ぶ比較宗教学というのが中心です。宗教にはどの宗教にも共通する部分があり、それと共にそれぞれの特徴があります。 

 宗教に共通するもの、これを言い替えれば様々な神様に共通して人間が求める事柄といえるでしょう。何のために宗教があり、神を祭るのかといえば、死者の葬りは共通しています。また、昔は戦争に勝つために神を祭りました。現代では、経済的な成功、心身の癒しなどが共通する部分だと思います。このように共通する部分に関していえば、勝った側の神、拝んで癒してくれた神が正しい、またはより力のある神だということになります。この場合、目的が先にありますから神様は誰でも良いことになってしまうのです。一方、特徴というのは他に変えることができない事柄です。他の神様と全く異なるところ、他の宗教に変えられないところです。ですから、戦いに負けても、癒されなくても、富を失ってもこの神様以外に信じる方はいない、そう確信できる部分こそ、その宗教の最も大切なメッセージだといえるのです。旧約聖書のヨブ記はそのような意味で、唯一の神様を信じることの意義とそれに伴う困難を赤裸々に示しています。

 さて、以上のようなことを念頭に置いてマタイ福音書の8章を見てゆきましょう。ここには、山上の説教を終えたイエス様が、山から下りてなさったことがしるされています。そこでイエス様はめざましい癒しをなさいます。私たちは奇跡そのものといえるその素晴らしい働きに目を奪われます。そして、そこにはマタイ福音書の読書であるユダヤ人キリスト者に対する特別なメッセーぞも示されています。それは、当時感染を恐れ、汚れの象徴とも思われていた重い皮膚病の人に手を触れて癒されたこと、異邦人であるローマの百人隊長の信仰を賞賛し、それと比較してイスラエルの人々の信仰を下に置いたことです。それらはユダヤの人々のプライドを揺すぶるメッセージでした。

 そして、さらにこの働きはイザヤ書に示されていた預言の成就であることをマタイは示します。この預言の言葉はイエス様の癒しが、本当に特別な癒しであることを示しています。イエス様の「癒し」は、心と体の患い、病をご自身の身に負ってくださることによって与えて下さる「癒し」なのです。これは、イエス様の救いの業である贖いと重なります。神の座から手を伸ばすのではなく、人として私たちの世に来て下さり、やんでいる人、患っている人の傍らにあって心を通わせ、同情し、ご自身でその患いと病を負ってくださるというのです。ですから、イエス様の弟子となるということは偉くなることではありません。

 マタイ8章は癒しの奇跡に続いて、嵐を静める奇跡、そして、悪霊にとりつかれたガダラの人の癒しが続きます。ここにはイエス様が自然を納め、諸々の霊を治める方であることが示されています。

 このガダラの人の癒しでは豚が犠牲になったことが記されています。そして、この出来事を通して、イエス様がガダラ地方の人々から拒まれたことが示されているのです。イエス様の働きを恐れる人がいます。それは一人の人の救いのためだからといって犠牲を払うことを拒む人々です。そして、そのような思いは私たちにもあるのではないでしょうか。豚を飼っている人にとってこの損失は本当に大きかったことでしょう。しかし、イエス様はそれをお許しになったのです。

 イエス様は救いのためにご自身を投げ出してくださいました。イエス様は犠牲を払い、人々の病と患いを変わって担ってくださいました。それが、イエス様の癒しの業なのです