2008年 8月 3日


向こう岸に渡ろう
聖書 マルコ 4:35〜41

 私たちクリスチャンが神の子と信じているイエス様は、人として世に来られ、人として歩まれました。それは、悲しみや苦しみを経験されたたということです。そして、当然のように疲れを覚えることもありました。ですから、弟子たちが疲れることも知っておられました。ある解説書に「向こう岸に渡ろう」というイエス様の言葉は、群衆から離れて休息を与えるためであったと書かれていました。この「向こう岸に渡ろう」というイエス様から様々なことを受け止めることができます。それは、この「向こう岸」というのは異邦人の地だからです。ユダヤ人にとっては汚れた地であり、好ましくない場所です。イエス様にとって、ユダヤ人か異邦人かという区別はありましたが、そこに差別的な意識や感情はありませんでした。ですから、群衆を離れて休息をとることが目的であったということもあったかもしれません。

 イエス様は船が出ると船の後ろの方で眠りにつかれました。イエス様もお疲れになったのだと思います。イエス様が十字架につけられる日、ゲッセマネの園で祈りをしていたとき弟子たちは疲れて眠ってしまいました。その時、イエス様は寝入っている弟子たちに「わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い」(マルコ16:38)とおっしゃいました。この言葉に、私はイエス様の孤独の悲しさとともに、肉体の弱さを知っておられる優しさを感じます。様々な癒し、そして奇跡をなさるイエス様は同時に人の弱さを知り、優しさと憐れみを持って私たちに接してくださる方なのです。

 船が岸を離れてしばらくしたとき、激しい突風が起こり、船に波がかぶって、船の中が水浸しになるほどでした。突風は、この湖に時折起こるものでした。弟子の中にはこの湖で漁師をしていた者たちがいましたから、そのことは承知していたでしょう。その彼らが恐れてイエス様に助けを求めるのですから、この日の突風は普段と違ったものだったのでしょう。弟子達は「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」と言って眠っているイエス様を起こしたのです。この言葉には、子どもが親に求めるような依存性と甘えが現れています。助けてくれるのが当然なのになぜそうしてくれないのだ、という気持ちが現れています。これは、神様がいるかいないかという議論になったときにもいわれる言葉です。なぜ、神様がいるのにこの世には理不尽なことが起こるのか、という問いかけです。神様が愛ならば、神様が正義ならば、なぜこの様な理不尽がまかり通り、悪い者が栄えているのかという問いかけです。「この世の中の状況を見れば神がいないことがわかる」といった人がいます。これに同意する人も多いではないでしょうか。そして、そのような問いかけに私たち神様を信じるものは何と答えたらよいのでしょうか。

 私たちも、神様にこの様な言葉を投げかけます。詩篇の祈りには、神様に対してなぜ沈黙しているのですか、なぜ、神様を信じている者を苦しめる者たちをそのままにしておくのですか、という祈りが記されています。(例えば74編)そして、その時、詩篇の詩人たちは神様を信じてそのように祈っているのです。よい社会を作るのは神様の責任なのでしょうか。それは、私たちの責任です。キリスト教の歴史を振り返るとき、ローマのあの厳しい迫害の中、クリスチャンたちは暴力の前になすすべがないように見えたでしょう。しかし、歴史の中でローマ帝国は滅び福音は広まったのです。軍事力もなく、政治的な力もなかった教会がなぜあの時代を生き延びることができたのでしょうか。それは、クリスチャンたちの神に従う姿が人々の心を打ったからだといわれています。その姿が、迫害する側の権力者たちの腐敗を浮き彫りにしたというのです。人々の心の中にクリスチャンを支持する思いが静かに広がってゆきました。愚直な信仰が、時を経て歴史を動かしたのです。

 突風の中、船が沈没するかもしれないという恐怖の中で弟子たちは「なぜ、助けてくれないのか」と叫びました。現代のキリスト教の歴史を知っている私たちであっても、神様が沈黙しておられることに不安を感じます。ですから、弟子たちの叫びを他人事とはいえないでしょう。

 イエス様はこの弟子たちの叫び、訴えを受け止めてくださいました。神の子としての力によって、風を静めてくださったのです。そして、その後で、イエス様は弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」といわれたのです。信仰とは、約束を信じること、言い換えれば言葉を信じることです。神様の約束を信じる、そして、神様の言葉を信じることなのです。イエスさまが「向こう岸にいこう」とおっしゃったのだから必ず向こう岸にゆくことができる、そう信じることが信仰ではないでしょうか。

 信仰に篤く、疑うことのない勇敢な弟子ではありませんでした。疑い恐れる弟子たちでした。しかしイエス様はそのような弟子たちの叫びに答えてくださったのです。「天(てん)は自(みずか)ら助くる者を助く」といわれますが、イエス様は「自ら助くる者」ではなく、助けを求める者を憐れんでくださったのです。

 この主イエス様の憐れみの中で、弟子たちは成長してゆきました。そして、教会はやがて主の言葉の通り「向こう岸に」渡って行きました。教会は異邦人に福音を携えてゆく群れとなったのです。

 主の言葉に信頼し、自分の世界、自分の思いを越えて主に従う者でありたいと思います。主の憐れみと助けの中で、私たちも「向こう岸へ」福音を携えて参りましょう。

 

祈り

 主イエス・キリストの父なる神様、今日の主の日もこうして教会に集い、共に礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。

 イエス様は、怖れ惑う弟子たちの声に応えてくださいました。信仰篤い者ではなく、信じることのできない弟子たちを憐れんでくださいました。

 不信仰な者を憐れんでくださるイエス様の愛に感謝いたします。私たちもあなたのその愛によって救われました。私たちはあなたの憐れみと導きの中で成長したいと願っています。主よ、どうか私たちをお導きください。

 この祈りと願い、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。