主の祈り(ルカ福音書より)


聖書 ルカによる福音書11章1節〜13節 (中心1節から4節) 

 新約聖書の「主の祈り」を通して祈りの学びをしましょう。主の祈りはマタイとルカの福音書に記されています。マタイは、有名な山上の説教の中に置かれていますが、ここではルカ福音書から学んで参りましょう。

 ルカの福音書では、マタイと違って弟子たちがイエス様に「祈りについて教えて欲しい」といっています。バプテスマのヨハネが弟子たちに祈りを教えているので、自分たちも学びたいという思いがあったことがわかります。この弟子の言葉の中にも大切なポイントがあるように思えます。それは、祈りを学びたいという気持ちがあるということです。ここで弟子たちはどんな思いを持っていたのでしょうか。私も以前、祈りを教えて欲しいと頼まれたことがあります。その人は、教会員になったばかりの人で、ある集会で祈りの奉仕を頼まれたのです。人前で祈るのが初めてということで、祈りを教えて欲しいと願ったのです。この人は、求道中から祈ることを大切にしている人でした。毎日就寝前に祈っていた方でしたが、人前で祈ると言うことで緊張もあったのでしょう。この人の態度はとても大切だと思いました。公の場で祈る時には、個人的な祈りと違って自分の思いだけで祈ってはいけないのではないかと言うことを感じていたのでしょう。

 さて、主の祈りには大きな特徴があります。それは、神様に「父よ」と呼びかけていることです。しかも、これは「アッバ」という言葉です。これは「パパ」というようないわゆる幼児語です。とても近くて、親しい関係がこの言葉に表れています。そして、そこには心から信頼して頼るという思いが現れています。そして、この呼びかけに続けて、神様を讃える言葉が祈られています。次に「御国が来ますように」とありますが、この「国」という言葉は「支配」というふうにも訳せます。御国というのは空間的な場所を示すのではなく、神様の支配、つまり神様の御心が行われるところという意味を持っています。ですから、「御国が来ますように」というのは何か違う場所や空間が現れるというのではなく、この場所で神様の支配が実現する、つまり、神様の御心が行われるようにという意味があります。「父よ」というとそうでもないのですが、「パパ」という呼びかけと「御名があがめられますように。御国が来ますように」という言葉は一見そぐわないようにも思います。しかし、これは、神様に対する全幅の信頼を表しています。自分たちがあれこれ考え、ああなったらいい、こうなったらいいと考えることも大事ですが、何よりも神様の御心がなりますように、ということを最初に祈っているのです。

 そして、そのような祈りに続けて、生きるために必要なものを求めています。以前私は尊敬する牧師先生から、こう教わりました。「ここで大切なのは、私に必要な糧、ではなく私たちに必要な糧と祈っていることです。そして、その私がどれだけ広がりを持っているかが大切なんです。私たち、という時にその複数形の中に飢え乾いている人たち、ホームレスの人たちも入っていますか。私たちが狭くなって実は私だけにとなっていないか振り返って見ることが必要です」と。これはとても大切な示唆ではないでしょうか。祈りは、私と神様との対話ですが、私の心が広くされて行くこと、となり人に対する豊かな想像力が求められているというのです。

 神様に赦しを求める時も、となり人との関係の中で祈られています。神様の前に、私も、私と親しい人も、そして敵対する人も罪深く弱い存在であることを受け入れて行く時に、この祈りの言葉は真実なものとなるのです。それは、とても難しい祈りだと思います。ですから、この教えに続けて、イエス様は聖霊の助けを強く、強く求めるようにと勧めておられます。助け主なる聖霊の導きが、祈る時にも必要なのではないでしょうか。