信仰を支える祈り


聖書 エフェソの信徒への手紙 6章18節?20節  

 祈りというのは、神様との対話です。神様のことを誉め称える思いを伝え、願いを伝えたり、時には疑問をぶつけたりします。それは、自分の心の中で念じることとは違います。自分の思いを受け止めてくださる方がいるということを信じて、その思いを伝えるのです。『祈りの精神』という本を著したフォーサイスという神学者は「祈らないことは罪である」といいました。それは、しなければならない祈りという行為を怠ったから罪だというのではありません。人は自分の力で出来ると思ったら祈りません。そして、対話をしないというのは関係を大切にしていないということです。つまり、祈らないということは、傲慢の表れであり、神様との関係を軽視していることになります。ですから、「祈らないことは罪」なのです。祈らないことの中に罪が現れているといってもよいでしょう。

 今日の聖書の箇所ですが、新共同訳聖書ではこの箇所を含むエフェソの手紙の6章10節〜20節に「悪と戦え」という小見出しがつけられています。信仰の道を守り通すために、そして、神様の御心にかなった歩みが出来るように戦いなさい、とパウロは記しています。神様の御心にかなった歩みをするためには、戦いが伴います。私たちは体験からその現実をよく知っています。パウロは信仰の戦いは悪との戦いであり、霊的な戦いだといいます。それは、愛し、信じ、希望を持ち続ける戦いです。

 愛すること、信じること、そして希望を持つことは戦いです。好きになることは自然な感情ですが、愛するためには意志が求められることがあります。それは、人に対しても、神様に対しても同じです。信じ続け、希望を持ち続けようとするときに苦しみを乗り越えなければならないことがあります。私たちが神様の御心に従って生きようとするとき、そこには、愛し続け、信じ続け、希望を持ち続けるための戦いがあるのです。この戦いを戦い抜くため「神の武具」についてパウロは記しています。そして、そこに祈りに関する教えが記されています。

 ここには、まず祈るときには霊の助けの中で祈るようにとの奨めが記されています。祈るときにも、霊の助けが必要です。霊の導きがなければ、私たちは自分の気持ちを一方的に伝えるだけになってしまいます。本当に大切にしなければならないことを見失ってしまうこともあるでしょう。そして、霊の助けの中で「聖なる者のために」、つまり、信仰の仲間のために祈りなさいとパウロはいいます。私たちの信仰は、互いに祈りあい、支え合うことが大切です。ここではパウロ自身も、「私のためにも祈ってください」といっています。パウロも祈りの支えを求めています。

 祈りは、自分自身の弱さを知る中で起こされてきます。聖書は「苦しいときの神頼み」を否定していません。むしろ、奨励しています。ただ、「苦しいときだけの神頼み」にならないようにしたいと思います。私たちは、神様の支えの中で生きています。自分一人でがんばっていると思っているときにも、神様は支えてくださっています。ですから、「絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」というのは、神様が絶えず支えていてくださるという事実を受け止めてゆくということでもあります。イエス様の十字架の苦しみを通して私たちは救いをいただきました。神様からの恵みがいつも先立ってます。ですから、祈るときにも神様に助けていただいていることを忘れないようにと、聖書は私たちに語りかけています。

 20節に記されているように、この手紙は獄中で書かれました。鎖につながれている中で、しかし、必ず解き放たれて再び福音を語るときがくるという希望はしぼんでいないことが伝わってきます。それどころか、この状況の中でも福音を語るべき時がくる、だから、そのときのために祈ってほしいという熱い思いが表れています。しかし、それは祈りの支えを必要とすることなのです。助けられて祈る、そして、祈りに支えられることの大切さを忘れないようにして参りましょう。