2008年 5月25日


心を新たにして
聖書 マルコによる福音書 2:18〜22

 イエス様が福音の宣教を始められたころ、イスラエルには大きく分けて三つの宗派があったと考えられています。福音書に何度も登場し、イエス様と度々対立していたのがファリサイ派です。それから、祭司たちはサドカイ派というグループを作っていました。そして、もう一つはバプテスマのヨハネのグループであるエッセネ派です。この中で祭司たちはレビ族の出身者であり、神殿を守り、民族全体の宗教を司るという特別な立場にありました。一方、ファリサイ派やエッセネ派は彼らの主張に従って厳格な信仰生活を守り、それと共に自分たちの主張を伝道していました。そのような意味で彼らはダイナミックに活動をしていたグループです。このような中で活動を始めたイエス様は、既存のどのグループとも異なったメッセージを携えて活動を始めたのです。

 新しいものというのはそれだけで魅力を持っています。新鮮で、今までとは違うというおもしろさがあります。変化があるというのは、不安と期待を呼び起こします。イエス様はそれだけでも人々に関心をもたれたことでしょう。さらにイエス様には力が伴っていました。第一には癒しの力です。それまで誰も持っていなかったような癒しの力を発揮しましたから、病を負っていた人々やその家族、友人はこぞってイエス様のもとにやってきました。さらに、癒しの奇跡を一目みたい思った野次馬たちもやってきました。第二の力はそのメッセージの力です。イエス様のメッセージは人々の心を揺さぶりました。人々はイエス様の教えを聞いて感動しました。イエス様のメッセージを聞きたいと思う人々もイエス様のもとに集まってきました。しかもイエス様のメッセージや行動を批判するファリサイ派や学者たちをイエス様は論破して行きました。体制や権力をやりこめるイエス様に若者たちは心を躍らせたのではないでしょうか。平たく言えば「カッコいい」と感じる若者たちがいたと思うのです。

 正しい人、本当の優しさと真実な思いやりにあふれた人、圧倒的な力を持った人、しかし、偉ぶることなく誰とでも親しく接する人、困っている人を全力で助けてくれる人、敬虔で祈りに熱い人、しかも、共に食事をしたりお酒を飲めばその場が楽しくなる人、もしそんな人がいたら人気があってたくさんの人がその周りに集まってくるでしょう。イエス様はまさにそのようなお方でした。しかし、全ての人がそのような人を歓迎したわけではありません。人の内側には、嫉妬や保身といった心があるからです。イエス様に対する敵意は宗教的な論争によってだけ引き起こされたのではないように思います。

 今日の箇所から、当時の人々がヨハネの弟子たち、つまりエッセネ派の人たちやファリサイ派の人たちとイエス様のグループとを比較して見ていることがわかります。ここでは、エッセネ派やファリサイ派の人たちが断食をしているのにイエス様の弟子たちは断食をしないということが比較されています。そして、人々はイエス様のもとに来て「なぜ、あなたの弟子たちは断食をしないのか」と問いかけているのです。ここでのやりとりを見ていると、どうもイエス様のもとに来た人々はイエス様の弟子たちに対して批判的な感情を持っていたように思えます。断食は宗教的な行為として、ユダヤ教だけでなくイスラム教や仏教などでも行われています。キリスト教の中にも断食を重視する方たちがいます。最近は健康のための断食というのもありますが、一般的に断食というのは宗教や宗派を超えてきわめて宗教的な行為なのです。また、命がけの訴えと言うことで断食をして抗議の意志や主張を表明することがあります。命がけであり、非暴力による抗議としての断食です。

 このイエス様のもとに質問を持ってきた人々はどのような思いだったのでしょうか。考えられることは、「イエスの弟子たちは宗教的な敬虔さに欠けているのではないか」という疑問であり、批判です。ただ、ここで質問をしている人たち自身は断食をしているのかどうかを明らかにしていません。例えて言えば、評論家のような位置でヨハネの弟子たちとファリサイ派、そして、イエス様のグループとを比較し批評していたのではないでしょうか。イエス様が人々の中に入って行き、一緒に飲み食いしていること、特に罪人といわれる人たちと飲み食いしていることは、ファリサイ派の人たちからすれば汚れた行為であり、イエス様に理解を示しているヨハネの弟子たちにとっても疑問に思うことであり、躓きでした。イエス様は、神の業としかいえないような癒しの奇跡を行い、その教えは人々を感動させ、神様の御旨を権威を持って示す方でした。しかし、人々はこのグループは宗教的な敬虔さに欠ける、と見ていたのです。

 私たちの信仰にとって、宗教的な敬虔は大切な事柄だと思います。宗教的な儀礼というのも同様です。子どもたちの信仰の成長を願う小羊会の五つの約束、礼拝、祈り、聖書、捧げ物、伝道はクリスチャンにとって一生大切にすべきテーマだと思います。しかし、それが形だけの表面的なものになってしまうこともあります。宗教的な敬虔さや儀礼も同様です。イエス様に問いかけた人々はそのような形にとらわれていたのです。

 イエス様はこの人たちの問いかけに「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいる限り、断食はできない」とお答えになりました。イエス様は、今、という時を喜びの時として示しています。福音という喜びの知らせが告げ知らされた今、求められているのは喜びを現すことだとおっしゃっています。そして、だから今は断食の時ではないとおっしゃっているのです。しかし、イエス様は断食を否定しているのではありません。悲しみや苦しみの時が訪れたなら、彼らは断食するとおっしゃっています。それは、内面からあふれ出る悲しみの中で行われる断食です。イエス様は心と行いが一つとなることを大切にされているように思います。そして、それは人の目にどう映るかと言うことから自由になって、神様の前に行うべき行為だとおっしゃっているのです。

 そして、信仰の行いがつぎあてのようにならないようにとおっしゃっているのです。新しい布きれを古い服につぎあてることの愚かさをイエス様は語っておられます。ここでイエス様は、新しいものが良くて古いものがだめだとおっしゃっているのではありません。私たちの宗教的な行為が、神様の前に誠実さを装うようなものになってはいけないとイエス様はおっしゃっているのです。以前見たアメリカのギャング映画でこんなシーンがありました。マフィアのボスが教会に行って、敬虔な面持ちで懺悔をしている。そして、その同じ時に彼の手下たちが敵対する組織のボスたちを次々に殺している。二つの全く対照的な場面が交互に映し出されるのです。そして、世の為政者たちは神の名によって戦争を正当化しようとします。戦争の決断の前にあえて、教会に行って礼拝をする。そんな祈りや礼拝をイエス様はなんと言うでしょうか。祈りや礼拝をつぎあてても何も解決しない、それどころか、じたいをさらに悪くすることになるのです。

 礼拝、讃美、祈り、私たちの宗教的な行いが形だけの敬虔さになっていないでしょうか。信仰の行いが日々の生活から切り離されたつぎあてになっていないでしょうか。革袋を古いままにしておいて、つまり、生活をそのままにしておいて恵みを受けることだけを求めていないでしょうか。一方的な恵みで救いに預かった私たちクリスチャンは新しくされています。その喜びを日々の生活の中に表していくものでありたいと願うのです。新しくされた命にかなった日々の生活を祈り求めてまいりましょう。


祈り

 主イエス・キリストの父なる神様、こうして今日、あなたに市川大野キリスト教会へと呼び集められた兄弟姉妹方と共に礼拝を捧げることのできる恵みに感謝いたします。

 私たちはあなたの一方的な恵みによってイエス様を信じる信仰へと導かれました。イエス様の十字架の購いによって、新しい命に生きる者となりました。私たちの魂は新しい葡萄酒のようにされていますから、私たちの日々の生活もまた新しくされて行きますように。

 この祈りと願い、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。

市川大野キリスト教会  主日礼拝説教 2008年05月25日