執り成しの祈り


聖書 執り成しの祈り (とりなしのいのり) ヘブライ人への手紙 5章7節〜10節

 聖書の中にはイエス様に対する、救い主、預言者、人の子、そして、神の子というように様々な称号が出てきます。そして、ヘブライ人への手紙には、イエス様のことを「大祭司」であると記されています。

 祭司というのは神殿で神様に使える働きをする人のことですが、その重要な働きは、神様と人との間に立って執り成しをするということです。律法に違反してしまった人が神様に許していただくために、祭司のところに捧げ物を持ってゆきます。するとその祭司は、祭壇でその捧げ物を捧げて神様に許しを求めます。このように、神様と人との間に立って執り成しをすることが祭司の重要なつとめです。

 ヘブライの手紙の著者は、イエス様は私たちの罪の執り成しをしてくださる祭司である、といっています。イエス様は私たちの罪の執り成しをしてくださいました。十字架を前にしたときペトロに「信仰がなくならないようにあなたのために祈った」とイエス様はおっしゃいました。また、十字架上でご自分に対してあざけりの言葉を投げかける人たちのために、「この人たちは何をしているのかわからないのです」と祈り、神様に許しを求めました。イエス様はご自身を贖の捧げ物として捧げるとともに、まさに祭司として執り成しの祈りを捧げられたのです。この祭司のつとめについて、ヘブライの手紙には、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです」と記されています。苦しみを通して、神様に対する従順を学んだというのです。そして、この箇所の少し前、4章の終わりには苦しみを経験されたことによって、イエス様は私たちの弱さに同情してくださる方だとも記されているのです。これらの言葉は何を示しているのでしょうか。それは、苦しみを知り、弱さを経験し、他者の弱さに同情することができる祭司こそ、完全な祭司であり大祭司だというのです。私たちは、欠点がなく、弱さを克服する強さを持った人を完全な人と考えてしまうことがあります。しかし、聖書はそうではないといっています。欠けを持ち、弱さを持っている人、そして、その欠けと弱さの故に他者に対する憐れみの心を持つ人こそ完全であるといっているのです。これは、コリントの手紙の「愛の賛歌」に歌われている「山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい」という言葉に通じるでしょう。
 弱さ、そして、悩み苦しむことを知っておられるイエス・キリスト。イエス様は「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いを捧げ」られたのです。私たちは、この方から執り成しの祈りについて学びたいと思います。

 祈りは神様との対話です。ですから、こちらから一方的に思いを伝えるだけでなく、相手の言葉、つまり神様の言葉に耳を傾けることが大切です。そのように「聞く」ことを大切にしながら祈るとき、私たちの心は広く豊かにされてゆきます。一方的に自分のことを伝えるとき、私たちの心は内向きです。けれども、相手の言葉を正しく受け止めようとするときには、心を外向きにして開いていかなければなりません。心が閉ざされているときには他者の気持ちを受け止めることができないからです。心が開かれ、他者の気持ちを受け止めることができ利用になるとき、私たちは「執り成しの祈り」に導かれてゆきます。

 執り成しの祈りとは自分のために祈るのではなく、人のために祈ることです。そして、それはその人と神様の間に立って祈る祈りです。けれどもその祈りは他者の上に立って祈る祈りではありません。悩んでいる人、助けを求める人の傍らに心を寄せて祈る祈りです。もし、その人が神様のことを知らないならば、その人の苦しみをいくらかでも感じながら、その人に変わって神様に祈りを捧げる。それが、イエス様の祈られた執り成しの祈りではないでしょうか。