6課 教会


1.「教会」とは何か   

A.呼び集められた者の群れ

*エクレシア
新約聖書はギリシャ語で書かれています。そして、教会という言葉はギリシャ語のエクレシアの訳語です。エクレシアは、「呼び出して集める」という言葉からから派生した語で「呼び集められた集会」を意味します。古代ギリシャでは村や町で何か問題が起こると市民を呼び集めて市民集会を開催して議論をしました。このように、もともとエクレシアは宗教性のない言葉でした。しかし、旧約聖書がギリシャ語に訳されるときイスラエルの宗教的集会(会衆)を指すカーハールという語の訳語としてエクレシアが採用され、宗教的な集会をも意味するようになったのです。

*キリスト者たちの自己理解
キリスト教徒たちが自らの集まりを「エクレシア(教会)」と呼んだのは、旧約の伝統を受け継いだ「宗教的集会」を意味する言葉だからです。そして、それと同時にキリスト教徒たちが自らを「神に呼び出された者」と理解していたからといわれています。つまり、彼らは教会を神に呼び集められた者の群れ」と理解していたのです。

B.キリストの体

*この教会はキリストのからだであって・・・   【エペソ1:23】
聖書は「教会はキリストの体」であると示しています。また、エペソ書の3章10節には「それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって・・・」とあります。ここには教会の使命が示されています。すなわち、教会はキリストの体として「神の多種多様な知恵」を「もろもろの支配や権威」に対して証しすることがそのつとめなのです。

*キリストの体とその肢体
コリントT書の12章27節に「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である」とあります。キリストの体である教会に神様によって呼び集められた一人一人は、その肢体(部分)なのです。一つの体ですから、一つの肢体が痛むとき他の肢体も痛みをおぼえるのです。このような愛によって結ばれた群となるとき、教会はキリストの体として、「神の多種多様な知恵」を証しするのです。

2.教会生活の必要

A.教会はイエス様が建てられた

*神への愛と人への愛
信仰は「神様」と「私」という一対一の関係を基としています。しかし、それは同時に他者に対する広がりをもっています。イエス様は最も大切な戒めとして、神様を愛することと自分と同じように隣人を愛することを示されました。神への愛と人への愛、この二方向の愛が同時に求められているのです。つまり、私たちの信仰は他者性を求められているのです。この他者性は共同体の中で育まれます。ですから、私たちの信仰にとって教会の交わりが必要なのです。

*イエス様のご計画
イエス様は使徒たちに教会の勤めを託されました。また、イエス様は「互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネ13:35)と教えてくださいました。イエス様は一人の人にではなく、使徒たちと言う群れ、そして、教会と言う群れに働きを託されたのです。それは、愛によって結ばれた群れがキリストを証するからなのです。そして、ここに教会を建てられたイエスさまのご計画があるのです。
 
B.キリストの働きを担う群れ

*キリストの働きを担う
不完全な私たちは、完全な人であるイエス様の業を担うことができません。しかし、互いに愛し合うことによってイエス様の弟子であることを証しすることができるのです。そして、ローマ書12章6節にあるように、「わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っている」のです。ですから、互いに互いを喜びそのタラントを活かし合うならば、一人よりもよりよくイエス様の業を担うことができるでしょう。

*祈りの共同体
イエス様は告別の説教で弟子たちに新しい戒めを与えられました。それ は、「互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」と言う戒めです。それでは、互いに愛し合うと言うことは具体的にどうすればよいのでしょう。ある牧師は「祈ることは愛することである」と言いました。これは真実です。ですから、互いに愛し合うと言うことは、互いのために祈ることと言えるでしょう。私たちクリスチャンは、自らの信仰のために、祈ることと共に祈られることが必要です。教会は祈りの共同体として、主の業を担うのです。