2008年 5月4日


主イエスの食卓
聖書 マルコによる福音書 2:13〜17
 

 明日はこどもの日です。子どもたちの健やかな成長を願うと共に、子どもたちに対す
る大人の責任と言うことも考えなければならないと思います。教会でも子どもたちとど
のように関わってゆくかというのは大切なテーマです。私たちバプテスト教会は幼児
洗礼を否定しています。そのことから、以前、ある教派の方からバプテスト教会は子
どもを受け入れない、大切にしていない教派だという批判を受けたことがあります。そ
れに対して私は教会学校の話をして応えました。バプテスト教会の教会学校では大
人にクラス、つまり、成人科があることが大きな特徴です。そして、もう一つ特徴があり
ます。それは、嬰児科があるということです。幼稚園に上がる前の子どもたちも、生ま
れたばかりの子どもたちも宗教教育の対象として考えるという姿勢です。幼児洗礼は
行わないけれども、生まれたばかりの子どもたちも伝道の対象として、関わっていくと
いう姿勢です。ですから、幼児洗礼を否定すると言うことは、子どもを除外しようという
のではありません。そのようなことを話しましたら、その教派の方が「幼児洗礼をした
からといって本当に子どもを受け入れているか、真剣に考えなければいけないのは
確かですね」といって下さいました。

 ところで、私たちの市川大野キリスト教会は今年度の主題として「霊による一致」とい
うエフェソの信徒への手紙の御言葉を掲げています。霊による一致とは、パウロが教
会の目指すべき姿として示している言葉です。そして、このエフェソの手紙の中でパ
ウロは教会を「神の家族」と言っています。ユダヤ人も異邦人も区別なく一人の神様
を父とする家族であるというのです。そして、今、私たちが子どものことを考える時に
「家族」という交わりを真剣に考えなければいけないと思います。教会は子どもを、そ
して、大人を育む場所でありたいと思います。つまりは人間を育む家族であったらと
思うのです。

 さて、家族というのは血の繋がりと考えられますが、それとともに約束による繋がりで
もあるのです。つまり、家族の中で親子関係はそのほとんどが血による繋がりです
が、夫婦は約束によって結ばれています。そして、その約束を神様と証人となる人の
前で公にします。夫婦、そして、その親や子どもたちによって形作られる交わりの中
で大切なことは、食事を共にするということなのです。特に最近では、このことがあら
ためて見直されてきています。そして、家族でなくても食事を共にするというのはとて
も親しい交わりを意味します。ですから、イスラエルの人々は食事を共にした人を裏
切るというのは赦されないことでした。つまり、食事を共にするというのは仲間である
ことを現すことでした。イエス様は食事を共にするということをとても大切になさいまし
た。そして、そのことが物議を引き起こすことがありました。今日の聖書箇所にはイエ
ス様の食事にまつわる出来事が記されています。

 イエス様はガリラヤ湖のほとりで集まってきた群衆に教えを説きました。それから、イ
エス様は場所を移そうとされたのでしょうか、収税所の前を通りかかった時そこに一
人の人が座っているのを見かけました。それはアルファイの子レビという名の収税人
でした。この収税所はローマに納める税金を集める場所でした。ですから、収税人と
いうのはローマの手先として働いていたのです。その中でも有名なザアカイのように
頭ともなるとかなりの財産を築いていました。その財産の多くは不正な取り立てによっ
て作られたものでした。今月号の『聖書教育』誌にも解説が載っていましたが、不正
な取り立てをしていたのはザアカイのような頭で、たぶん下働きであったレビはそれ
ほど不正なことはしていなかったと思われます。しかし、ローマの手下であることに変
わりありませんでしたから、ユダヤの社会では民族に対する裏切り者であり、罪人で
あることに変わりありませんでした。そんなレビにイエス様は「私に従いなさい」と声を
かけ、弟子としたのです。これはきっとレビにとって驚くような出来事であり、本当に
嬉しかったのだと思います。拒否されることがあっても、招かれることなどほとんどな
かったでしょう。レビはすぐに立ち上がって、イエス様に従いました。そして、イエス様
を家に招き食事を共にしたのです。

 レビの家ではレビの仲間の徴税人も、そして、同じように罪人と呼ばれていた人た
ちも大勢食事の席に着いていました。この様子を見たファリサイ派の律法学者はイエ
ス様のほかの弟子たちに「どうして、彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と
いったのです。この問いかけは非難の言葉です。「あなた達の先生は、罪人の仲間
なのか。そうだとすれば、あなた達の先生は罪人だ」という意味が込められていまし
た。

 ファリサイ派の人たちは、罪人や汚れたものとしっかり分離した生活を送ろうとして
いた人たちです。罪人にふれれば自分も汚れると考えていたのです。このファリサイ
というのは「分離する」という意味の言葉です。私たちは罪や汚れから分離した生活
を送る、というのが彼らの主張でした。ですから彼らにとって見れば徴税人や罪人と
一緒に食事をするなどと言うのは考えられないことだったのです。

 イエス様は彼らの非難の言葉を耳にしました。そして、彼らにこういわれました。

 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人
を招くためでなく、罪人を招くためである。」

 この言葉には、イエス様の救いの使命が示されています。この言葉をこう言い換え
ても良いと思います。「神の救いを必要とするのは、自分に救いが必要だと思ってい
る罪人である」と。イエス様は全ての者を招いておられます。なぜなら、全ての人は
罪人だからです。しかし、全ての人がこの招きに応えたのではありません。私は罪人
だ、という自覚のないファリサイ派の人々はこの招きを拒みました。ところが、ファリサ
イ派の人たちから「罪人だ」と言われていた徴税人たちは、罪人であるという自覚を
深く持っていました。レビはどんな思いで収税所の前に座っていたのでしょうか。彼
は、今の自分に満足できていなかったように思います。「これでいいのか、このままで
いいのか」、そんな思いを持っていたように思えるのです。しかし、変わりたくても変え
られない現実があります。あきらめが心を支配します。今、現代の問題はこんな時、
死を選んでしまう人が多いことです。あきらめと絶望、そして、ゲームのリセットボタン
を押すように死んだら人生が変わる、死んで生き返って新しい人生を歩み出した
い、そんな感覚で死を選ぶ人がいます。

 イエス様が教えて下さったこと、それは、神様はあなたを愛していると言うことです。
自分で自分に価値を見いだせないような時でさえ、神様はあなたを愛している。だか
ら、死を選ばずに命を全うしなさいと言うことです。

 レビはイエス様の呼びかけに応えて歩み始めました。イエス様の招きに応えたレビ
は、イエス様と食事を共にしました。神に背く罪人というレッテルを貼られていたレビ
は、しかし、イエス様の招きに応え、食卓を共にして、神の家族の一員としての歩み
を始めたのです。そして、私たちクリスチャンもまた、イエス様の呼びかけに応えたも
のとして種と食卓を共にしつつ、歩むのです。


祈り

 主イエス・キリストの父なる神様、こうして今日、あなたに市川大野キリスト教会へ
と呼び集められた兄弟姉妹方と共に礼拝を捧げることのできる恵みに感謝いたしま
す。

 イエス様は罪人としてさげすまれ、そんな人生に疲れを覚えていたレビをお招きに
なりました。主に招かれ、それに応えることのできたレビは幸いなものでした。そし
て、私たちクリスチャンも主の招きに応えて幸いな歩みを歩み始めることができまし
たことを、心から感謝いたします。そして主よ、どうか、私たちをあなたの招きを伝え
る器としてお用いくださいますように。

 この祈りと願い、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。

市川大野キリスト教会 主日礼拝説教 2008年05月04日