祝福を祈る


祝福を祈る  聖書 Tペトロ 3章8節〜9節  


 ペトロの第一の手紙から祈りについて学びましょう。この手紙は、教会の礼拝の中で読まれたものだと考えられています。新約聖書の時代の教会のほとんどは家の教会です。キリスト教はある時期まで、ユダヤ教の中の一派と考えられていました。使徒言行録の2章48節には弟子たちが神殿に出かけて礼拝していることが記されています。また、パウロもユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で福音宣教をしました。初期のクリスチャンたちは、ユダヤ教の礼拝を守ると共に、週の初めの日に仲間の家にあつまって共に食事をする愛餐の時を持ち、その中で主の晩餐を行ってイエス様による救いを確認したのです。そして、その信者の家での集まりを「教会(エクレシア)」と呼んだのです。

 初期の教会は家の教会で、教会堂はありませんでした。そして、それぞれの集まりにリーダーがいましたが、皆が特別な教育を受けたわけではありませんでした。そこで、ペトロをはじめとする使徒たちや、執事として選ばれた人たちが各地の教会を巡回して教会を導きました。実際に尋ねられないときには、手紙というかたちで教会を導くことがありました。このペトロの手紙はそのような目的で書かれた手紙です。ですから、内容は説教そのものです。教会では、説教としてこの手紙が朗読されたと考えられています。特に、この手紙の前半の部分は、これからバプテスマを受けてクリスチャンになろうという人に向けて書かれた教えだと言われています。バプテスマにあたっての説教というわけです。また、イエス様を信じると言うことを家族から理解されていない人や、信仰の故に地域社会の中で白眼視されている人たちに対して、希望を持って信じ続けるようにとの励ましを語っています。

 この手紙にはそのような背景を持ちながら、ペトロは家族や周囲の人々から侮辱されている人たちに語りかけています。そしてその言葉は、クリスチャンたちが被害を受けていることを考えると、厳しく思える勧めの言葉です。ペトロは、困難の中にあっても正しく歩みなさいと言っているのです。人は苦しみの中におかれると、その苦しみを逃れようとします。それは、きわめて自然な反応といえるでしょう。しかし、苦しみから逃れようとするあまり、間違った方向に歩き出してしまうと言うことがあります。ペトロはそのことを戒めています。苦しいからと言う思い。被害者であるという感情は時として自分自身の行いを正当化します。悪に対して、悪を持って報いても良いのだと思ってしまうのです。それが、人間の自然な感情なのかも知れません。だからこそ、ペトロは厳しく響く言葉を書き記しているのです。

 ここでペトロが示している侮辱する物に対する身の振り方は、祝福を祈ると言うことです。なぜなら、祝福を受け継ぐために召されたのだから、とペトロは言うのです。侮辱に対して侮辱で答えるなら、悪に対して悪で報いるなら、その人自身が神様の祝福から離れてしまうでしょう。神様は、善を行おうとするものを助けてくださいます。ペトロをはじめとする使徒たちは、イエス様の復活の証人です。イエス様は、悪に対して悪で報いようとはなさいませんでした。イエス様はファリサイ派や律法学者たちを批判しました。しかし、イエス様は偽りを言って相手をおとしめるようなことはなさいませんでした。その結果、イエス様は十字架という最大の屈辱を味わいました。けれども、それで終わりではなかったのです。イエス様は復活なさったのです。ペトロはこの事実の証人です。

 敵対するものへの祝福を祈ること。それは、容易なことではありません。しかし、敵対する相手が神様から祝福されたらどうなるでしょう。神様の祝福を受けたなら、その人はクリスチャンを侮辱することから解放されるでしょう。侮辱する物への祝福を祈る祈り、そこに根本的な解決の道が示されています。ペトロは、祈りを通して根本的な解決を求めるようにと奨めているのです。難しいことですが、表面的な一時的な解決だけでなく、根本的な解決を祈り求めることを大切にしたいと願うのです。