8課 礼拝を守る


1.礼拝について   

A.礼拝を捧げる

*礼拝に表れる私たちの信仰

宗教学者の岸本英夫氏は「宗教儀礼は、組織的な、かつ、定型化された宗教的行為である」といっています。つまり、礼拝などの宗教儀礼の中にその宗教の教義や信仰者たちの信仰が表現されているというのです。礼拝にはキリスト教の教えと私たち集う者の信仰が現れているのです。

*儀礼を越える礼拝

礼拝とはその字のごとく礼を尽くして拝むことを言います。ですから、私たちは礼拝に集うとき、その身をたださなければなりません。教会では時として人間中心、私中心の礼拝が営まれることがあります。まず第一に礼拝は捧げ物です。ですから、なにを得るかではなく、なにを捧げるかが問題です。自分の満足のための礼拝ではなく、神様に喜んでいただける礼拝を求めなければなりません。神様中心な心で礼拝を捧げるとき、私たちは神様の臨在を感じることができるでしょう。そしてその時、礼拝は儀礼を越える生きた神様との交わりの時となるのです。

B.私たちの礼拝

*神様から託された礼拝のつとめ

クリスチャンが求められているのは、まことの神様を礼拝するということです。神様は御自身に対する礼拝者としてユダヤ人を選び、召されました。それは、彼らの真実な礼拝の姿によって、世の神様を知らない人々に神様を示すためでした。しかし、ユダヤ人たちはその使命を忘れて選ばれたことを特権と思い選民意識を持ってしまったのです。そこで神様は礼拝によって、真の神様をすべての民に知らせる使命を教会とそこに集うクリスチャンに託したのです。

*神様を愛する者たちの礼拝

神様はユダヤの民の礼拝する姿によって御自身をすべての民に知らせようとなさいました。これは、今日でも当てはまります。日曜日、何をさしおいても礼拝を守る;姿、それは人々に驚きを与えます。「何のためにせっかくの休みをつぶすのか?」と問われたことがあります。神様を愛している、大切に思っているということは言葉ではなく礼拝を守るその姿によって人々に伝わるのではないでしょうか。

2.主の日を守る

A.主の日を守る意味

*週の終わりの日から始めの日へ

初代教会のクリスチャンたちはユダヤ教徒と同じように土曜日を安息日としていました。そして、主が復活された日曜日には主の復活を覚えて、共に集い、イエス様を記念する主の晩餐式を行っていました。この日曜日の集会がユダヤ教の習慣とは異なるキリスト教独自の礼拝の始まりです。後にキリスト教がローマで認められ、日曜日が礼拝のための休日となったのです。

*神様中心の生活へ

日曜日は、週の最初の日。しかし最近のカレンダーや手帳は月曜日から始まっているものが多いようです。仕事の始まりが週の始まり、日曜日は休んで仕事に備える。こんな仕事中心の生活が一般的です。しかし、本当の始まりの日は、日曜日です。一週の仕事を終えて礼拝に帰ってくる、そして礼拝から週の歩が始まるのです。日曜日をしっかりと主の始まりの日と位置づけることは、仕事中心、経済中心の生き方から神様中心の生き方への方向転換を意味しているのです。

 

B.礼拝の必要とその恵み

*一つとされるとき

教会は礼拝共同体といわれています。そして、 礼拝は一人の神様に目を注ぐ時なのです。礼拝に集められた私たちは異なった価値観を持ち、感覚、感情を持って生活をしています。こんな私たちが一つとなることは本当に難しいことなのです。しかし、私たちは同じ神様という一つの方向に心を合わせることができます。ですから、私たちは主の日の礼拝によって一つの群れとされているのです。

*主の日を守る恵み

「ユダヤ人が安息日を守ったのではない、安息日がユダヤ人を守ったのだ」という言葉があります。ユダヤ人が迫害やさまざまな困難の中で信仰を守り通せたのは安息日を守ったからでした。日曜日に礼拝を守ることによって私たちはクリスチャンとしてのアイデンティティを確立していくのです。私たちは困難に負けてしまいます。主の恵みを忘れこの世に流されてしまいます。日曜日は私たちに神様の恵みを思い出させてくれるのです。 そして、礼拝を守ることができることの恵みを忘れてはなりません。礼拝を守ることのできない人の悩みや苦しみを思いつつ、とりなしの祈りを捧げて参りましょう。